ふしぎデザインブログ

デザイン事務所「ふしぎデザイン」の仕事やメイキングについて書くブログです。

もののけはどんな姿をしているか(もののけデザイン3)

 「もののけ」をデザインするにあたって、前々回では「もののけとは何か?」ということ、前回では「もののけとプロダクトの共通点」について触れた。

 

keitaakiyama.hatenablog.jp

 

そこで、今回はこれまでの展開を踏まえて、「もののけプロダクト」はどのような形をしているのか?というトピックについて考えることにする。

 

「ひとがた」という考え方

人形(にんぎょう)というものがある。

人のかたちを模して作られたもので、子どものおもちゃとして使われたり、過去には呪術の道具や身代わりとしても使われたものだ。仏像をはじめとした偶像もこれに含めてもよいと思う。

 

人形には、雛人形やドールのようなリアルなものから、こけし陰陽師が使う形代のようなデフォルメされたものまで、バリエーションがほとんど無限に存在する。

これらは「人のかたちを真似る」という共通のデザイン要素を持っている。その目的や用途は様々だが、人のかたちを取り入れることで、ものに感情移入させたり親しみをもたせたりすることができたのだろう。実際にそれが作られたときには、そんなことは考えられていなかったとしても。

人形は「ひとがた」という言葉で言い換えることもできる。このブログの文章の中では、いわゆる「ぬいぐるみ」を指す「人形」と区別するために、人のかたちを真似た一連のプロダクトを「ひとがた」と呼ぶことにする。(ところでカタカナの「ヒトガタ」で検索すると、都市伝説が出てくるのでおすすめしません…笑)

 

僕は、「もののけプロダクト」のかたちは、ひとがたをベースにしたものがよいと考えている。初回の文章で例に挙げたロボホンやpepper、boccoなどのように、人の暮らしの中にある知性あるものは、人に準ずる形をしている方が自然に受け入れられると感じるからだ。

ただし、その形状は、ドールやマネキンのような、人の容姿をトレースしたものではなくて、こけしやだるまのような、人の容姿をデフォルメしたものとしてデザインしたい。

これは個人的なデザイナーとしての勘に基づくものなのだけれど、あるプロダクトがあんまり人に似ていると、人のフェイクのような印象を与えることになってしまい、ユーザーを怖がらせたりしてしまいそうだ。それよりは、「人っぽい」くらいの印象のかたちの方が、使う人も「自分たちとは違うやつらなんだけど、仲良くしてくれそうだな」と感じやすいと思う。

 

 

「ひとがた」を「ひとがた」たらしめる要素

さて、ひとがたをデザインするにあたって考えておきたいことがある。

それは、「どこまでデフォルメしても、あるプロダクトを『ひとがた』だと認識できるだろうか?」ということ。もうちょい噛み砕いて言うと、「何があれば、ものを『ひとがた』にできるんだろう?」ということ。僕たちは、リアルな人形や仏像を見た時に「これは人のかたちなんだな」と判断するのは簡単するときと同じように、こけしや埴輪を見たときにも「人のかたち」を読み取ることができる。人がなにかを「ひとがた」と判断するためには、何が必要なんだろう?

それを考えるために、2つの先行事例について触れることにする。現代美術家内藤礼による彫刻作品「ひと」と、江戸時代の仏師円空による一刀彫の仏像群だ。

これら、極限までシンプルに削り落とされた「ひとがた」を見ることで、何がひとがたを成り立たせているのかがわかるかもしれない。

 

 

円空の仏 

 円空は全国を旅しながら、その土地その土地で仏像を彫る仏師だった。小学館ブックオブブックスの「円空と木喰」という入門書によると、”大寺院の高級僧侶ではなくて、庶民の要望から生まれ、民間信仰的なものを反映した半俗半僧的な下級僧侶であったと思われている”らしい。

 

 

その作風は特異で、いくつもの部品を組み合わせる寄木造ではなく、ひとつの木の塊から像を彫る一木造(一刀彫)という手法で彫刻を行っていたようだ。造像のプロセスで特筆すべきはそのスピードで、ときに一日のうちに彫刻を完成させるような速さで制作したという。

作業を速く進めるためには工程をシンプルにしなければならない。すると自然と成果物もシンプルになる。なたや大きなのみが生み出す造形は荒々しく、人物の表情は極限まで単純にデフォルメされている。

 

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小学館ブックオブブックス「円空と木喰」p158

 

 上に載せた像は、もはや仏像というより木の塊といったほうが近いような、非常に手数の少ないものだ。割れた木目の流れの中に、ほんの少しだけ手を加えて顔を彫り出す。それだけでも、人はひとがたを感じることができるようだ。

 

 

内藤礼の「ひと」

二つ前のポストでも触れた現代美術家内藤礼さんの近作に「ひと」という名前の連作彫刻がある。

 

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2017年5月 資生堂ギャラリーにて撮影(撮影可の展示)

 

手のひらの上にちょこんと乗るくらいのサイズで、バルサ材を削って眼を入れただけの素朴な作りの彫刻なのだが、一度それに気づくと目を離せなくなるような不思議な存在感がある。上でも書いたように、「ひと」という名前の作品は一つだけではなく、手足のあるものやないもの、長い髪をもった女性のようなかたちのものなどバリエーションがある。

作家本人がこの「ひと」について話している文章をいくつか読んでみたところ、造形上のポイントに触れている箇所があった。ひとがたを成立させているのは、首のくびれと眼だという。

 

球体のような彫刻をつくるときと違って、人の場合はなんていうか、たとえば首のところを木から少し削りだす、するとそのことだけでグンと人が表に表れてきます。木でありながら、木から突然。 

 里文出版「信仰と美のかたち 可視化された神の像」P169

 

内藤 人形(ひとがた)を作る時、私は、立つ形をずっと選び取ってきました。座ったり、横になっている像は一つもなく、何かに寄りかからず立っていて欲しいという思いがあるからです。これまで350人ほど作りましたが、そのひとはそのひとでしかないという個性が現れるのは、目を入れた時だと感じます。

 

中村 今もお話ししていると目を見ますものね。

 

内藤 今まで作っていた抽象の作品と明らかに違うのは、人形(ひとがた)には前と後ろという方向性、頭から足へ貫く軸があるということです。目が入ると、明らかにこちらを見ているひとだと、何かを見ようとしているひとだというふうに感じるのです。

JT生命誌研究館webサイト 生命誌ジャーナルTALK「地上の光と生きものと」より引用  


 

首のくびれ、そこから現れる頭の形。そしてそこについている眼と、それが表す視線。

江戸時代と現代、生きた時間は違うけれど、二人の作家が作り出した「極限までシンプルなひとがた」の要件は似通っているように思える。

つまるところ、ひとがたとは「眼のついた顔」のことなのだ。

 

 

人の心を動かすひとがたの姿

もののけをデザインするにあたって、シンプルなひとがたの姿を使いたいというだけでは、要するに人形がしゃべったりするのとあんまり変わらない。

もっとエモい、ドキっとするものはないかなと考えていたときに、Twitterで面白い作品に出会った。知り合いのイラストレーターましゆさんが作った、女の子のイラストレーションがアニメのように動くアプリだ。

 

 

いわゆる萌えの文脈にある「Live2D」というツールで作られたもののようで、ましゆさん本人も他のツイートで触れていたように、ただの映像なのに実在感がある。

この実在感はツールの性質に基づいているようで、まばたきや身体の微妙な動きなど、生きものっぽい動きをよく観察して実装できるようになっている。ドキっとする…しませんか?ただ、人によってはこの動きに、不気味の谷的な気持ち悪さを感じることもあるようだ。

…というか、僕もこのソフトを触ってわかったんだけど、「絶対に『嫁』を生きているように動かしたい」という製作者の執念を感じる。すごい。

 

www.youtube.com

 

嫁の話はさておいても、このツールとプロジェクターを使うことで、ひとがたの最小条件である「眼のついた顔」を、いろんなものをベースとして作ることができるなと思いついた。そこで作ってみたのが、次のようなプロトタイプだ。

 

 

 眼の動き、瞬きが「ドキっとするひとがた」なのだとして、それを「もの」に付加させることができたら、より深くユーザーをものに感情移入させることができるかもしれない、という意図で作ってみたのだけれど、どうだろう。どんな風に見えますか?

 

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投影するものの違いで違ったキャラに見えるような… 

 

今の眼はLive2Dのチュートリアル用フリーイラストを使っているので少し萌えっぽい雰囲気があるけれど、これをもっと他のタッチで作ることができれば、もっと広い好みのユーザーに面白がってもらえるものになりそうだ。

 

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タネ明かし。aliexpressで買った安いプロジェクターを分解して、小さい像を投影できるようにしている

 

 

というわけで、今回はここまで。自分の考える「もののけ」の形がだんだん浮かび上がってきた。ここからは、テキストを参照して考えるというより、プロトタイプの制作を繰り返して実験していく段階になると思います。

どんな風に発展させていこうか、楽しみだ。

 

「Fabのそれから」トークショー再録

以前の記事にひきつづき、個展「想像力の部屋」トークショーを再録してみます。

 

今回は、ものづくり集団「電化美術」のリーダー中田さんと、Fablab北加賀屋の共同設立者の津田和俊さんをゲストに迎えた、「Fabのそれから」というタイトルのトークです。

このとき大阪勤務だった中田さんは東京に、同じく大阪で働かれていた津田さんは山口に、それぞれ引っ越しされています。そういう意味でも、このとき話を聞いておいてよかった。

文中で、「深圳がおもしろそう、行ってみたい」というトピックがありますが、翌年実際に行くことになるとは、このときはまだ思っていなかった。

 

連続トークショー「想像力の談話室」vol.3

「Fabのそれから」ゲスト:津田和俊 / 中田裕士

 

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秋山 今日はFablab北加賀屋の津田和俊さん、電化美術の中田裕士さんをお呼びしてお話を伺っていきます。…まず乾杯をしましょうか。

 

津田 はい! みなさんグラスありますか?

 

秋山 では、想像力の談話室、第三回ということで、乾杯!

 

一同 乾杯!

 

秋山 …早速飲んでしまいましたね。(笑)

お二人の共通点は「fab」や「Make」というキーワードで表せると思います。ざっくり言うと、会社とか大きな規模でものをつくるのではなくて、もっと小さい規模でもものづくりはできますよ、という最近すごく認知されてきている活動です。今日はそれを実践しているお二人をお呼びして、新しいものづくりについてお話していただきます。

 

「Fab」とはなにか

 

まずはお二人の紹介をしたいと思います。こちらが「Fablab北加賀屋」という、大阪の北加賀屋というところにあるものづくり工房ですね。津田さんが運営に関わっていらっしゃいます。運営は何人でやっていらっしゃるんでしたっけ?

 

fablabkitakagaya.org

 

津田 ものを作りに来る会員がだいたい40〜50人くらいで、運営にも関わるメンバーが20人くらいですね。

 

秋山 大阪市の海沿いの複合施設というか、「コーポ北加賀屋」という場所の一角にFablabがあると。こんな感じで3Dプリンタなんかもあるんですよね。機械は今どんなものがあるんでしたっけ?

 

津田 樹脂を積層していくタイプの3Dプリンタと、シート状のものとかステッカーとかをカットするカッティングマシン、レーザーで材料を彫刻したりカットできるレーザー加工機、それからデジタル刺繍ミシンのようなものもあります。ラボの中で一番大きいマシンはCNCルーターというもので、家具とか、建築の部材のようなものも作れるものです。

  

秋山 なるほど。今ご説明いただいたような個人では買いにくい設備がみんなに開かれることで、今までできなかったようなハイレベルなものづくりが個人レベルでもできるようになってきてる。現在Fablabという施設は大阪だけじゃなくて、東京とか浜松、仙台にもあるんですよね。

 

津田 そうですね、国内で12カ所です。(2017年2月現在は18箇所)

 

秋山 …というようなことを始め、さまざまな活動をしている津田さんです。よろしくお願いいたします!

 

津田 よろしくお願いします。

 

秋山 もう一人のゲストの中田さんは、僕も所属している「電化美術」というものづくり/ことづくり集団のリーダーをやってらっしゃいます。役職名はCTOで…CTOって何の略でしたっけ?

 

http://www.denbi.org/

 

中田 「チーフ・テクノロジー・オフィサー」ですね。そういう役職を拝命しまして。(笑)

 

秋山 最高技術責任者ってことですね。

「電化美術」は、半年に一度のペースで自分たちの展覧会を行うことがメインの活動です。大阪市阿倍野区に「阿倍野長屋」というスペースがありまして、そこでやっています。「長屋を改装したギャラリー」とかじゃなくてほんとにむき出しの長屋なんですけど。(笑)

 

中田 2012年から半年に1回ペースでやっています。これは前回、2014年の年末に行った第6回の展示のダイジェストムービーです。

 

www.youtube.com

 

秋山 年末ですね。これもかなり押し迫った時期にやってたような記憶があります。

 

中田 直前まで予約してなかったのでそこしか空いてなかったんです。(笑)この時の作品は、コケを快適に散歩させるための機械とかインタラクティブな小便小僧、声を聞かせると水を出すメガホンなんかがありました。

 

秋山 電化美術は今までに6回の展示を行っていますが、「10回までやろう」っていう目標があるんですよね。なのでもう折り返しまできています。Fablabとかそういう新しいものづくりの形態を利用して、自分たちの作りたいものをつくるというような感じで活動しています。

 

中田 Fablab北加賀屋のレーザーカッターがなかったらできなかったという作品も結構ありますね。

 

秋山 さっき映像に出ていた「コケ散歩マシン」を作った伊賀さんは、Fablabのレーザーカッターを使いこなして毎回すごく複雑な機械を作っています。

それから、電化美術にはステイトメントのようなものもあります。

 

中田 「電化美術宣言」と呼んでいます。僕が勝手に書いたものなんですが。(笑メンバーは全員会社勤めしているデザイナーです。

 

秋山 Fablab北加賀屋も電化美術も、活動を始めてかれこれ3年目に入るかってところですよね。

 

津田 そうですね。パーソナルファブリケーション(個人的なものづくり)の拠点をFablabって呼んでるんですけど、「ファブ」っていうと日本だと「ファブリーズ」が先に出てくると思うんですけど(笑)ファブリーズじゃなくてまずは「ファブリケーション(Fabrication)」ですね。作るっていうこと。それから、ファビュラス(Fabulous)楽しいとか愉快とかっていうこと。それから後は「ファブリック(Fabric)」ていう意味もあります。織っていくということですね。

 

秋山 あ、「Fabric」も入ってるんですか。

 

津田 「Fab」っていう単語にはそういった色んな意味が込められていて、加えて「実験する工房」なので「ラボ」をつけてFablabという名前になってます。

自分たちがFablabを関西で検討し始めたのは2012年なので、さっきも出てましたけど電化美術と同い年くらいですね。2013年から先程のコーポ北加賀屋という場所に入居して、2年くらいになるんですけど。

 

中田 やっと大阪にもできたかという感じで。できてすぐにレーザーカットを使いに行ったんです。

 

津田 そうですね、展覧会前に。

 

中田 駆け込んで行きました。

 

津田 なので自分たちとしてはそれくらいからなんですけど、Fablabという活動自体は結構前から行われてます。2002年に始まって、現在は97カ国、1000施設以上に広がってきています。なのでもう10数年の蓄積があるんですね。

 

fabcross.jp

 

もともとは1998年ぐらいに、MIT(マサチューセッツ工科大学)の授業で「How to make almost anything」っていう「色んなものの作り方」を学ぶ授業があったのが始まりです。つくりかたの授業をやってみると学生が教授の手を離れてそれぞれ面白いものを作り始めるというので、それをもうすこしアウトリーチ—つまり大学の外でやってみようというので始まったのがFablabなんです。今ではMITだけじゃなくてほんとに色んな国、色んな地域で立ち上がって来て、それが繋がっていると。

 

秋山 MITというのは元々ものづくり系の大学というわけではなく、美大とか工業高専というわけではなく、理系の大学なんですよね?そういうところからムーブメントが出て来たというのが個人的にはおもしろいなぁと。

 

津田 その元となった授業では毎回ものを作るんですね。毎週講義があって、そこで出た課題に沿って作ってきて、次の週に発表するっていうようなことを繰り返すんですけど、面白いのが造形系と実装系を一緒くたにして授業を進めることなんです。

さっきおっしゃってたみたいに、日本だと工学部とかにあるものづくりと造形大とか美大とかでやるものづくりって完全に分かれているけど、それが交互にカリキュラムに組まれているんですね。3Dプリンティングの授業があれば、基盤をつくる授業があったり。また、造形の方法やミリングマシンの授業があったりとか。それがMITの授業としてだけではなくて、世界中にあるFablabから受講できるようになってきた。それがFabacademyと言って、現在5年目です。

 

手仕事とテクノロジー

 

秋山 (スライドを映しながら)これがその時に作られた作品ですよね。津田さんがFabacademyを受けていた時の画像とか資料とかがアーカイブとしていろいろインターネット上にアップされてまして、そこから抜粋したものなんですが、言ってみれば背負子のようなものを作られたと。

 

Kazutoshi Tsuda | project presentation (Jun 4) | Fab Academy 2014 |

 

津田 そうですね。秋山くんもそうなんですけど、僕も民具とか民藝とか好きで。民藝館とかみんぱくとかによく行くんです。今日もみんぱくに行ってきたりとかしてました。

 

秋山 えっ、そうなんですか? うらやましい。

 

津田 この背負子—背負子っていうのは芝を刈って乗っけたりとかという道具ですけど—それが写ってる左の写真は、僕の大叔父が撮影した写真で、1960年代ぐらいの写真なんです。行商が色々な荷物を背負ってものを売りに来ている写真ですね。それからこれがさっきの、作ったものの最初のスケッチ。Fabacademyではアナログからデジタルまで色々な作りかたを学ぶ授業をするんですが、その中に僕はもう少し手仕事や手技みたいなものも入れていきたいと思ってたんです。

右側の写真は藁をなっているおばあちゃんの手なんですけど、そういう藁をなうとか木を組むとか紙を折るといった作業と、デジタルファブリケーションの作業というのを組み合わせていきたいなと。そういった動機で作ったものですね。

 

秋山 右側の藁をなっている写真のキャプションを見ると「My grandmother’s hand」って書いてあるんですよね。津田家の歴史が出てるなぁという。津田さんの面白いところは、岡山の山奥の村で生まれ育ったっていうところがひとつあると思うんです。身近にナチュラルにそういった自然や手技というのがあったと。僕の生まれた場所は神奈川の相模原っていうところで、表情の少ない新しく作られた郊外って感じだったんですけど、だからこそか手技や自然のものに惹かれていったんです。それをナチュラルにやっている津田さんにすごく興味をもちまして、お呼びして来て頂いたという次第です。

次に、中田さんにもスライドをご用意していただいています。

 

中田 はい、電化美術のCTOをやってるだけあってテクノロジーとかメカトロとか大好きなんですけど、学生のころからメディアアートをやっています。今まで大体、テクノロジーと人間の知覚みたいなものを絡めた作品を作ってきています。「人間が情報をどんな風に捉えてるのか」とか、「人間のふるまいの根本にある性質」みたいなところに興味がありまして。人間工学の勉強もしてたりするんでけど、そういった要素を転用した作品をよく作っています。(スライドを見せながら)これは最近作ったものの事例紹介なんですけど、「傘の家IoT」という名前の作品で、前回のデンビでも展示してたものです。基本的には置物なんですが、「ネットに繋がって動く置物」になってます。

 

傘の家 IoT | 電化美術

 

秋山 「IoT」っていうのは何の略なんでしたっけ?

 

中田 「Internet of Things(もののインターネット)」の頭文字をとったものなんですけど、日常に置いてある調度品とか、身の回りのものがすべてネットに繋がってインテリジェント化していったらどうなるか?みたいな技術コンセプトのことをIoTといって、最近ビジネスの中でもバズってるような感じですね。

で、僕は大学院の時も情報通信研究科っていうところにいたりしたっていうのもあって、「ネットに繋がるもの」っていうのにすごい興味があって卒制もそういうのを作ってたりしてたんですが、最近はそういうものがどんどん作りやすくなってるなっていうのを感じます。元々この作品(傘の家IoT)は、さらにそのひとつ前の電美の時に、インスタレーションとして作っていたものをもうちょっとプロダクトっぽく、IoTっぽく作り替えたというものなんです。

 

機能はすごく単純です。1時間おきにネットに自動的に天気予報を見に行くようになっていて、そこで確認した晴れ/曇り/雨の情報に従って、この傘を持っている腕を上げたりおろしたりするという、ただそれだけのものなんです。

「天気予報を見る」ということをするために、電光掲示板みたいなものを家の中につけたりわざわざテレビで見たりスマホで調べたりとかっていうんではなくって、感覚的には掛け時計だとか、温度計がかけてあるようなものにしたかったんです。それをちらっと眺めるみたいな。情報の取り方を考えて、今よりももうちょっとさりげなく自然に受け取れるようなものにできないかってことで作ってみたものですね。

 

秋山 (腕を動かすアニメーションを映しながら)こんな感じに動くんですね。

 

中田 これは早回しにしてますけど、こんな感じに腕の角度が三段階に分かれてて、1時間に1回、天気に変化があったときだけ腕がしれっと動くと。

 

津田 それ、僕のさっきの作品に搭載した方がいいですよね?

 

中田 え?

 

津田 雨が降ってるのが感覚的にわかるっていう作品でしょう?で、降ってきた雨を濾過して、貯めておいて、温熱殺菌して使う。組み合わせたら丁度いいでしょ。ね?

 

秋山 じゃあそれは次回の電化美術で。(笑)

 

中田 思わぬところから…コラボレーションが。(笑)

 

秋山 津田さんの作品がなんなのかということをそういえば聞いてなかったですね。(笑)今おっしゃっていただいたように、雨を集める背負子なんですね。

で、中田さんの作品ですが…、自分の作品をすごく面白い言葉で形容されていて、「ひかえめな」っていう言葉を使うんですよね。

 

中田 そうですね、先程言ったような電光掲示板のようなものだったり、機器が一生懸命情報を調べて表示させてというのではなくて、情報がただそこに存在しているみたいなもの。そういうありようを探求したいっていう気持ちがあります。「ひかえめ」っていうキーワードは十年来使ってるキーワードなんですけど。

 

秋山 インターネットの中田さんのウェブサイトも「hikaeme.net」で。ツイッターのアカウントも@hikaeme。だからものすごい徹底されてますよね。

 

中田 そうですね。他の言葉で言い換えるとアンビエントとか。あともっともっと「情報なのかそうでないのかギリギリのところ」っていう意味で「マージナル」っていう概念もあったりするんですけど、そういうところを探っていきたいなっていうのが自分の中での作品作りのひとつのテーマになってます。

 

秋山 アンビエントっていうのは環境という意味、マージナルっていうのはものとものの間にあるすき間っていうような意味ですよね。

 

中田 「ここまでが情報で、ここからが情報じゃない」みたいな、ぎりぎりの「際」みたいなところ、カテゴリー同士の中間のあいまいなポイントみたいな、そういうあいまいな概念らしいんですけど。「マージナル・ミュージック」というのがあるらしくって。それがヤバいんです。(笑)

 

秋山 聴いて面白いんですか?それって。

 

中田 街の音とか、秋山くんが集めてたみたいなものが素材なんです。それを更に音量を絞って、聴こえるか聴こえないかぐらいのものを音楽として聞かせたり…。よく分かんないっす。よく分かんないんだけどすごく惹かれるところがあって。

 

秋山 それから、中田さんの作品ってある面過激というか、シニカルなところもありますよね。

 

中田 もうひとつ自分の興味のあるところが、「テクノロジー」と、「それは人を幸せにするものかどうか」っていうところなんです。さっきの作品みたいに、「ネットとか使って暮らしがこんなに楽しくなりますよ」ということを裏側から見てみようみたいな。揺り戻しじゃないですけど、そういうことも一方でやっています。企業のなかで、「新しくて」「快適で」「健康で健やかに過ごせるものを作りたい」っていう活動をしている一方の反動みたいなところもあって。

 

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基本的に、エレクトロニクス産業では「新しいことが良いこと」で、こんなにものが進化しました、あれもできます、これもできますということを言うんですが、それに疑問を投げかけることをしています。これは学生の時に作った作品で「Sinktop」というアート作品なんですけど、「日本の大手メーカーが開発した、世界初の画面とマウスがついたキッチンシンク」という設定のものです。従来、水は蛇口をひねって出していたものを、Sinktopにログインして、水出しアプリを立ち上げて、出すボタンを押すと水が出ます、というものなんですね。

 

津田 水を集めるのは僕の作品で…。

 

一同 (笑)

 

中田 思わぬところからまたコラボレーションの種が!

 

秋山 やっぱり今は水なんですかね。(笑)

 

中田 これが、アルスエレクトロニカっていうオーストリアのコンペで学生のときに賞をいただいて、一緒にやってたのが吉田くんっていう、いまテクノ手芸部とかで活動してる人だったりするんですけど。で、アルスエレクトロニカのオープニングイベントで、ネットワークにつながっているSinktopを使って、ミキサー25個を制御するっていうオープニングアクトをやったんです。多機能なキッチンシンクなんで、こういうこともできますよっていうパフォーマンスをやったりしました。

 

www.youtube.com

 

秋山 皮肉りかたが本当すごいんですよね。Sinktopホント傑作だよ!みたいな。ある面でそれは、現代の工業製品はホント傑作だよっていうことにもなっていて。

 

 

「今あるもの」を疑え

 

中田 メーカーが言うことをもうちょっとみんな疑った方がいいですよっていう考えに基づいて作っているんですけど。例えばこれ、Sinktopを使うにはまずログインする必要があります、悪者に使われないようにこんなにセキュアになってますよっていう説明なんです。すごい桁数の多いパスワードを入れてからでないと水が出せなかったりだとか、あるいはネットにつなげて遠隔で水を出すこともできますよ、出先からキッチンの水出したいですよね?っていう。

…本当にそんなことあるの? っていう作品を作ってたりしてます。

 

この作品でもう一つ言いたかったことは、「道具がブラックボックス化している」っていうことに注目して、今までだと蛇口をひねると水が出ますよっていう、ノブをひねると水が通るすき間ができて水が出るというメカニカルな仕組みによって水を出していたところを、そこに電子機器が介在することによって、操作することによって引き起こされる結果が自由になった反面、操作と反応の距離が遠くなってしまったってことが言いたかったんですね。ユーザーインターフェースの考え方もそうなんですけど。

 

秋山 確かに、蛇口をひねれば水が出るし、ドアノブをひねって押せば開くっていうのは、みんなが知っていることなんですけど、例えばパソコンのボタンのどれを押せば何が起こるっていうのは、もともと知らないことですよね。いろんな道具がそうなっちゃったと。

 

中田 僕が今仕事にしているユーザーインターフェースデザイナーが「そう決めたから」そうなっただけのことなんです。「このボタンを押したらこうなる」っていう意味付けは、物理現象としては筋が通ってないんですけど、人が決めたルールに従って決まっている。画面上に出てくるボタンにマウスのカーソルを近づけていってクリックしたっていうところから実際に水が出てくるまでにいろんな技術的な要素の積み重ねがあるんです。

今のスマホとかをとってもそうだと思うんですけど、日常使うものの技術が高度化していて、もののメカニズムをすべてのレイヤーで理解して使っている人っていないんじゃないかと思うんです。テクノロジーが高度になることで、ある種中身が見えなくなってしまった。みんな中身を理解しないまま使っているっていうことにもっと疑いを持ったほうがいいんじゃないの?っていうテーマだったんですよね。

 

津田 あの、少ししゃべっていい?

 

秋山 どうぞ!しゃべってください。

 

津田 秋山くんのこれ(「別世界のためのラジオ」という作品)もそういうことですよね。ブラックボックス化して見えなくなってしまったものを見えるようにしてみようっていう。

 

http://keitaakiyama.com/post/90947471810/別世界のためのラジオ-radio-for-outer-world-2014

keitaakiyama.com

 

秋山 そこに置いてある作品はラジオをテーマにした作品なんですけど、流木の上に電子回路を直接釘で打ちつけてあって、こんな見た目だけどラジオとして鳴るっていうものです。

電気製品って、今はお店に行けば綺麗に四角くパッケージされたものが買えると思うんですけど、なんでそうかっていうと、そのための仕組みが整っているからで、例えば大災害があったりとかそういうことが起きたときには、そんなことやってる場合じゃない、そういう設備を整えてる場合じゃないっていうことがあると思うんですよね。でもそういう時にも、なにか情報を得たいっていうことはある。

そのためにものを作るとしたら、身の回りにある機械から部品を取って、それをプラスチックのきれいな箱に入れるんじゃなくて、例えば木の板みたいなものに釘でガンガン打って回路を作るとか、そういうことをするんじゃないかなと思ったんですよね。それを作品にしてみたというようなものです。そんななりをしてはいるんですけど、一応FMが聴こえる…いや本当ですよ、聴こえます。

 

津田 これで言うと、バリコン(周波数調整のつまみ)を回すのが入力で、出力としてラジオが聴こえるっていうのがあるんですよね。

 

秋山 この3人の共通点って、多分そういう「文明の利器」みたいなものに対してすごく懐疑的であるっていうか、みんな現代のものを当たり前に使ってるけど、それ以外あるんじゃない?って考えてると思うんですよね。三者三様のアプローチで、それに対して立ち向かっていくっていうか。

 

津田 「立ち向かっていく」…すごいですね。(笑)

でもそうですよね。僕もさっき紹介してもらったみたいに、岡山の人口1000人ぐらいの村で生まれたんですけども、子供のときはまだ五右衛門風呂だったんですよ。薪を集めてきて風呂を沸かすとか、くみ取り式の便所だったりとか。それがどんどん電化されていく。それはそれで喜ばしいんだけど、ずっとその方向でいいのかっていう。

 

秋山 うーん。

 

津田 前に電化美術にコメントを寄せたとき、「電化することそのものが文化だった時代は過ぎ去り〜」っていうことを書いたと思うんです。「〜これからは文化としての電化を考えないといけない」みたいな。で、今電気ガスを解約して2年経つんですね。(笑)でも今んところ僕は蛇口をひねると水が出る生活をしてるんですよ。水道インフラだけはあって。電気ガスを解約して面白かったのは、「水」ってやっぱすごいなあと気づいたことです。水があれば衛生を保てるし、いろいろ洗い物ができるし。でも水道も辞めてみられるかなと思って作ったのがさっきの作品なんです。

 

秋山 そういうことだったんですね。

 

津田 雨水を集めて生活をしてみようという。その作品を作っていくときに「道具のブラックボックス化」っていう話があったと思うんですけど、Fabacademyっていうところではブラックボックスの中身がどうなってるのかを学ぶ授業をするんです。

(自作した基板のスライドを見せながら)秋山くんが作ってるのと同じような基板をこうやって作っていくわけです。さっき紹介したFablabにある機材だけで全部作れるようなものなんですけど、こういったものですね。

 

中田 すごいですね。基板を削るところから自分でやるっていう…。

 

秋山 この基板が、津田さんの作品の頭脳にあたるところなんですね。

 

津田 「道具に情報を入力する→道具から結果が出力される」という流れの「→」の部分ですね。今の道具では覆い隠されてしまって見えない部分。入力だったら、スイッチ入れたりセンサーを使ったり。それを受けてアウトプットは、光る、水が出る、動く、音が出るとか。コンピュータもそうですし、身近にあるものってみんな「インプット→見えない部分での処理→アウトプット」っていう流れで動いてるんです。で、そこを見えるようにしていくということですね。

 

秋山 デザインの分野での有名な格言みたいなものの一つに、「形態は機能に従う」っていう言葉があるんですね。例えばはさみだったらものを挟んで切るのに適した形をしているし、ドアだったら押せば開くという形をしているとか。ものの機能が自然に分かるかたちがいいかたちですよっていう考え方があるんですけど、パソコンとかが発明されちゃって、ある意味でその言葉はぶっ飛ばされちゃったという感じですよね。

 

中田 必ずしも機能に従わなくても形態が作れちゃう。

 

秋山 ということですよね。だってこんな四角い板(iPhoneのこと)をさすったらメールが送れるとか、わけわかんないし。(笑)でも実際それができる。

 

中田 まったく物理法則に従っていない製品がいっぱいあると。

 

文化としてのものづくり

 

秋山 という感じで、津田さんがビールを補給したところで…。

今日、3つの質問を設定させていただいてまして、僕がお二人にぜひとも聞きたいなと思ったことをリストアップしてきました。ひとつめは、

・Fablab(あるいは、FabとMakeの文化)が生み出すもののどんなところに魅力を感じていますか?

ということ。

2つめは、

・Fabは工業的生産に取って代わるだろうか?

それから最後の一つ、これが多分今日の一番アツいテーマになると思うんですけど、

・「大量生産以前のものづくり」—さっき津田さんのおばあちゃんが縄をなってものをつくるようなことと、Fab/Makeの文化はどんなところが同じで、どんなところが違うのか―ということ。この3つを聞きたいと思っています。

  

まず1つ目の質問なんですけど、Fablabが生み出すものって、工業的生産というか、お店で売ってるものとは違いますよね。それぞれ良さがあると思うんですけど、どんなところが良いのかなあと。デンビの作品もそれに含まれるわけですが、何が良いんだろうということを聞きたいです。

 

中田 僕はFablabが生み出すもの自体もそうなんですけど、Fablabが創りだした社会の流れの変化にもすごく魅力を感じてます。「ものづくりの民主化」という言い方もされたりしますけど、先ほどの話題にもあった、ブラックボックス化された製品の中身をいかに出していくかとか、ものづくりを自分たち(消費者)の手にもう一度取り戻すという思想、これがFablabのやっていることのムーブメントの根幹にあるのかなと思っています。

20世紀型の産業のなかで今まで形成されてきた経済の流れだったり社会のしくみみたいなところをちょっとずつ変えていっているんじゃないかと思ってるんです。

大量生産を推し進めるなかで、会社の中で機能ごとに部署を分けていろんな専門家を集めてものづくりを効率化していった…。

それによって起こったのがブラックボックス化だと思うんですけど、Fabの文化は部署とか役割分担とかそういうカテゴライズを曖昧にしていってる。そこに魅力を感じてます。

例えば、「エンジニアさんが機能を作って、デザイナーはそれに購買意欲を喚起するようなお化粧を施す」というような専門家集団による分業によって、うまいこと20世紀後半ぐらいまではやってきてたと思うんですけど、その状況がちょっとずつ変わりつつあって、従来で言う「これはデザイナーの仕事」「これはエンジニアのやること」みたいなことを分けないでやる、全部まぜこぜにして一回見てみようというふうに変わってきている。その流れの中に身を置いていることにすごくワクワク感を持ってるんです。

 

秋山 僕も会社の中で「魅力的なガワを作る」仕事をしていますけど、専門家が集まった縦割りの企業で仕事をしていると、僕は技術の人のやっていることは完全に理解していないんです。営業の人のやってることについても、売っているってことはわかっても、どうやって売っているかってことはちゃんとは分かってない。でもFablabとかそのコミュニティの中では全部分かるわけですよね。あるいは全部ぐちゃぐちゃになっていて分からないとも言える。

 

中田 Fablab北加賀屋に遊びに行くとすごく面白いんですよね。みんな何かしら作業をしているんですけど、3Dプリンタで立体物を造形している人がいれば、その横で刺繍ミシンを使ってきれいなパターンを刺繍している人がいたり。あそこに行って「何してるんですか?」って聞くのがすごく面白いです。

 

秋山 実際にFablabを運営されてる津田さんにとっては、Fablab北加賀屋は「自分ち」なわけですよね。自分ちの良さってどんなところにあると思います?

 

津田 もう、いま説明してもらった通りです。過不足ない! 過不足ないですね。(笑)

いや、実は詰まった時のためにちょっとメモを持ってきたんですが、見てもらったら分かるんですけど過不足ないですね。

 

一同 (笑)

 

津田 だからどうしようかなって思ってるんですけど、(笑)みんぱくの館長もされていた梅棹忠夫さんが、「文明」っていうのはどんどん収斂(一点に向かって収束すること)していくんだけど、文化は多様化していくということを言ってます。大量生産も収斂していく方向に行くんですよね。それに対して、Fablabはカテゴライズできないものとかハイブリッドにぐちゃぐちゃになっているものとかを作れる、作ってもいい場所なんです。機材もそういう風になっているし、いる人もいろいろですね。僕たちのFablabで言うと、行政で働いていたり、教育機関で働いていたり、企業で働いていたりそれぞれしているんだけど、その人たちが週末に一個人としてやってきて作業していると。

 

秋山 すごくミックスされている感じがしますよね。年齢層的にもすごくいろんな方がいらして。僕みたいな20代の若造がいると思えばもっと上の年齢の方もいますし、別け隔てなくというか、いろんな方が集まっている印象がありますね。

Fablabっていうのは本当に面白いところで、企業が作れないようなものを生み出す可能性を秘めていると思うんです。企業でのものづくりでは、「すごくしっかりした、綺麗で良いもの」が作れるんだけど、逆に「全然しっかりしていなくて、綺麗じゃなくて、でも魅力を持っている」っていうものを生み出すことは難しいんですよね。そのための素地になるというか…。

 

津田 まだ価値が見出されてないものが生まれてもいっている。で、周りの人がそのプロトタイプだったりつくりかただったりを見て価値を見出していくというプロセスがあるんですかね。

 

秋山 売ってるものって「いいもの」しか売ってないんですよね。みんないいものしか買ってくれないから。必ずしも「もの」っていうのは、いいもの、価値のあるものだけであるべきだっていうことはなくて、変な言い方ですが「良くないもの」ってもっとあっていいと思うんですよね。触ると壊れるとかすぐ故障するとか。でもなにか、お店で売っている画一的なものとは違った魅力があるもの。そういうものがもっと増えたらいいと思うんですよね。

 

中田 あとはその、メーカーさんが見放しちゃったような、ディスコン(製造中止)になってしまったもの、例えば掃除機のホースのジョイントとかを3Dプリントしている人がこの前いて、わぁーっそれすごい良いなと思って。だいたい企業の中で製造物に対してパーツを保存しておかなければいけない期間が決まっていて、それを過ぎちゃったらパーツが壊れて替えの部品がなかったとしても文句言えないみたいなルールがあるみたいなんです。

企業の方にも長期間在庫を抱えておかないといけないというリスクがあるのである意味しょうがないと思うんですが。でも、そうやって道具を直している人も見かけて、Fablabがちゃんとしたものも作っている…!って。ちゃんとしてないものも面白いし、そこも魅力の一つだと思うんですけど、ちゃんとしてるものも作れるっていうことも魅力だと思います。

 

秋山 生産能力あるよっていうことですね。

 

津田 もうひとつ付け加えると—テクノロジーを批判的に見るっていう話がさっきあったんですけど—技術に使われないようにするという側面もあります。テクノロジーが何のためにあるかっていうと、人が成長するためにあると。スマート家電とかって言われて機器が賢くなるって言うんですけど、賢くなるのは僕たちであるべきなんですよね。機器を使うことによって、あるいは作ることによって、人の方が賢くなれるような技術の使い方というか、それを模索していけたらなあというのがありますね。

 

秋山 確かに、使えば使うほどアホになるような技術ってあるような気がするんですけど。ネットサーフィンでまとめサイトを見れば見るほどアホになるみたいな。好きだし見るんですけどね。

 

中田 アメリカは国策的にそういうことを言ってたりしますよね。オバマがプログラミングの勉強を推奨したりとか、ホワイトハウスMaker Faire(パーソナルファブリケーションのお祭り)をやったりとか。行政というか、政府としてもそういうところをバックアップしていこうという姿勢が見て取れるんですけど…。

 

津田 アメリカだと「STEM教育」って言われるんですよね。サイエンス、テクノロジー、エンジニアリング、マスマティクス(数学)。それにアートが入ることもあるんですけど、その分野の教育を政策として入れていこうというのはやってますね。でも日本でも、経産省のプログラムでも、「フロンティアメーカーズ」みたいな事業をやって、ハコとかものではなく、人材育成にお金が行くように徐々になってきていますね。あとはもう少し、初等教育というか普通の教育に「つくる」ということを入れていこう、という運動を進めているFablabのチームもいますね。「FABED」というチームも毎月ミーティングしたりしてますね。

 

makezine.jp

 

Fabの力

 

秋山 そういうことがある中で2つ目の質問をしてみたいんですが、「Fabは工業的生産に取って代わるだろうか?」っていう、これってかなり意地悪な質問だと思うんですよ。いまお二人がおっしゃっていったように、どんどんFabの力は大きくなっている。

ある意味歴史の流れをひん曲げるようなムーブメントでもあると思うんですけど、一方で企業のものづくりってすごいじゃないですか。僕がデザインしたものが10万個とかできちゃうわけです。それって大変なことで、今みんなが生きてることってそのおかげでやってられるわけですよね。

Fablabのリーダーたち、推し進めている方々は、将来的には「Fab社会」が来るだろうという構想を持っていたりするんですね。みんなが自分の好きなものをちょっとずつ作れるようになって、今の大量生産、大量消費、余った分は大量に捨てられるということじゃなくて、もっと最適化された、必要なところに必要なだけものが行く社会が来るんじゃないの、っていう話をしているんですよね。それは現実味を帯びてるんだろうかということをお伺いしたいです。

 

中田 僕は、結論から言うと取って代わることはないだろうと思ってます。新しい選択肢が増えるっていうことはもちろんあるし、それに期待もしてるんですけど、実際問題あれだけでかい企業の中でそれぞれの専門家が毎日10時間とか費やして設計したりデザインを施したりしているから、ものとしてはちゃんとしたものができると思うんですよ。それはいくらFablabがあっても、素人が一朝一夕に作れるものではない、というスキルの問題がある。量産するものって一つ一つ手作りで作るより安く作れるというコストの話もあるし、それから材料の問題もある。先ほど言ったみたいな、「壊れた部品を3Dプリントする」とか「オリジナルのコップを出力する」とか「CNCで木を切り出してスツールを作る」とか、そういうのはすごく可能性がある分野だと思うんですけど、そうならない分野ももちろんあって、SamsungとかAppleが作っている電子機器の最先端のプロダクトっていうのは、部品自体もストックしておけないし3Dプリンタや基板を削る機械があったとしても実現できない。そういう部分でできるものとできないものっていうのはやっぱりあって。だから、選択肢としてはあるけど「取って代わるもの」ではないと思いますが、津田さんどうでしょう?

 

津田 これも、過不足ないですよね。(笑)ほんとにほんとに! メモに書いてるから。「取って代わるというよりは、生産システムの多様化」って書いてある。

 

秋山 いま中田さんがおっしゃっていた内容ですよね。

 

津田 そうでしょう?(笑)

 

秋山 だからFablabとかのムーブメントっていうのは、文明を「前に進める力」じゃないんですよね、そもそも。横に広がるとか、あるいは後ろに行くとか…。「もっといろんな選択肢があるよ」っていうことを示してくれる力だと思うんですよね。津田さんもこの前一緒にお酒飲んでたときにそんなことをおっしゃってたと思うんですけど。

 

津田 生産システムは確かに多様化するんですけど、僕は資源循環とかサスティナブルデザインとかを専門に研究してるので、目標としてさらに「資源消費を減らす方向に持っていきたい」というのがあるんですよ。だからいろいろ選択肢はあるんだけども、それを淘汰するというか、評価する仕組みを合わせて作っていかないといけないという風に思ってるんですね。

「どういうつくりかたが適正か」っていう問題もこれからどんどん考えていかなきゃいけなくて、例えば量産に向いているものと向かないものがあるとか、かさばるものとか移動にコストがかかるものは現地調達で作る方が向いてるだろうし、逆に集積回路とかは一箇所で集約的に作るほうが向いているだろうし…そういったものの組み合わせだとは思うんですよね。Fablabでも、「量産」というものとどう折り合いをつけるかっていうことが議論され始めていて、毎年やってる国際会議も—去年はバルセロナ、今年はボストンでやってて、来年は中国の深圳でやるんですけど—それはなぜかっていうとやっぱりそこの話なんですよね。量産品とそうじゃないもののハイブリッドをどう考えていくかということだと思いますね。

 

秋山 深圳っていうのは今とってもアツい都市みたいですね。

 

keitaakiyama.hatenablog.jp

 

津田 そうですね。香港のすぐそばですね。

 

秋山 で、そこへ行くと日本では考えられないようなスピードで設計とか試作とかができるっていう話。日本の秋葉原が何十個もあるような規模でそういうところがあるみたいで、一回行ってみたいなと思ってるんですよね。

 

中田 デパートみたいな規模のところでワンフロアLEDしか売ってないようなビルがあるとか…。どんな街なんだろうっていう。その街にいれば徒歩何分圏内で欲しいパーツがすぐ手に入って、ハードウェアスタートアップの人たちがそこで材料を買ってきてすぐプロトタイプを作って、ということを繰り返してものを作っているという話を聞きますね。

 

津田 ツアー組もう、ツアー。うん。

 

ch.nicovideo.jp

 

大量生産の夜明け前と夕闇

 

秋山 それでは最後のトピック、ここにちょっと時間を割きたいなと思っているところなんですけど…。

大量生産って、今幅を利かせてる感じじゃないですか。お店に行ったら大量生産された製品が買えるし、カフェに行ったら大量生産されたグラスで水が出てくるし、みたいな。でもそういう風になったのって、言ってみればわりと最近の話なんですよね。「地球の歴史の中で人間が生まれたのはすげえ最近のことだ」って言われたりすると思うんですけどそれと同じで、ものづくりの歴史の中で大量生産が生まれたのもすごい最近だなあって。

言ってみたら200年ぐらいしか経ってないわけですよね。その前は自分の手で作るものづくりがあって、村の中で作るのがうまいやつが何かを作って誰かにあげるとか、あるいは街で自分の作ったものを売ってそれを商売にするとか、そういう世界があったと。

大量生産から派生したFabとかMakeとかっていうものも、ある面ではそういう性質を持ってますよね。例えば僕が中田さんちに棚を作って持っていくとかそういうことができる。でもその2つの間にはなにか違いがあると思うんですよね。昔はあって今は失われたものもあるし、逆に昔はなかったけど今はできることがあるっていう。僕は大量生産に関わる工業デザイナーをやっているんですが、その前後にすごく興味があるんですよね。大量生産以前と以後。そのことについて、この二人だったらなにか良いこと知ってるんじゃないかなと思って…津田さんどうでしょう?

 

津田 さっきの「得意な人が隣の人に作ってあげる」っていう話、秋山くん第一回のときもしてたんですよね。熊さんと八っつぁんの話ですよね?落語の登場人物の。落語は面白い寓話を沢山含んでるんですが、その中に酒を樽から売る「花見酒」という話があるんです。一つの樽から熊さんが酒をすくって八っつぁんに売って、また八っつぁんがすくって熊さんに売って…みたいな。ちょっとのお金が二人の間を行ったり来たりしてある意味経済が回るんですけど、どんどん樽の酒はなくなっていくっていう。その問題ってけっこう重要だと思うんですよね。

今のものづくりの置かれている状況…背景というか。「つくること」の背景には資源消費があるわけで、そことどう折り合いをつけていくのかっていうのが僕の関心なんですよね。これに入る前にそれをちょっと言っておこうと思って。

…僕もだから酒をね、資源消費してるんだけど…。

 

一同 (笑)

 

秋山 さっきの、LEDばっかり売ってるビルがいっぱいあるっていう深圳の話もそうなんですけど、その背後にはその引き換えだけの環境汚染があるはずなんですよね。天国みたいなものづくりワールドがある一方で、絶対その裏には地獄みたいなところがあるっていう…。つくる人はそれを絶対考えなきゃいけないなと思います。僕の生まれた神奈川の相模原っていうところは昔は桑畑ばっかりだったんですが、そこを開発して工場ができて、その周りにパチンコ屋ができ、国道の周りにファミレスとかができて、駅ができて…っていうような町なんですよね。相模川っていう川が流れてるんですよ。そこにだんだん近づいていくと、その途中に産業廃棄物処理場がいっぱいある一帯があるんですね。

そこに行くと…すごい気持ちになる。自分がものづくりを始めてからは余計そうなんですけど、車とかのスクラップがブワーっと積んであって、その迫力がすごいんです。夢の島とかとはぜんぜん比較にならないけれども、集められちゃったゴミがあって、それを作っちゃったのは自分たちであるという。すごく責任を感じます。

でもそこで面白かったというか…それはそれで恐ろしかったことがあるんですけど、10年前くらいのゴミの山が草に完全に覆われちゃってるんですよね。ぱっと見は古墳みたいな草に覆われた山になってるんですけど、よく見るとその緑色の塊の中身は草じゃなくて、ゴミの塊を草が覆い尽くしているだけだということが分かる。そういうある種壮絶な世界を作り出しちゃってるんですよね。その…工業デザイナーとか、あるいはエンジニアとかは。それをいつまでも続けていくわけにはいかないよなあと思いますよね。

 

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中田 数字だけ見てると、「こんなに冷蔵庫とかテレビとか作って売れるの?大丈夫なの?」っていう…まあ大丈夫じゃないところもあるんですけど、実際消費って恐ろしい…。

 

秋山 恐ろしいですよね。だって「去年は10万個作ったから今年は12万個作りましょう」っていうことにしないと会社は潰れるじゃないですか。

 

中田 そのやり方自体が狂ってる。(笑)

 

秋山 先週ここに来てくれた筆谷さんっていうすごく優秀なデザイナーがいるんですが、会社に入った時に「全員狂ってるんじゃないかと思った」みたいなこと言ってて、でもそれって自然な感性だったらそう思わざるを得ないようなところはありますよね。

 

中田 製品を買っていただいた方がある程度の幸せを手に入れてるという事実がある一方で、それだけ廃棄物が出てるっていうところは、常に責任というか後ろめたさを感じながら…。

 

秋山 やってるところがありますよね。企業で仕事をすることが悪の組織の一員になったかのような感覚を覚えることがあります。企業の活動を大局的に見たら、良いこともあるんだけど悪いこともあって、それに自分は積極的に加担しているんだっていう。その中で、自分のクリエイティビティを発揮させたいという欲求を満足させてるだけなんじゃないかと思うことがありますね。

 

中田 企業は良いことしか言わないし、これを買ったらこんなに楽になりますよ、今までできなかったこんなことができるようになりますよっていうことばかり伝えようとするんですよね。それで「ああそうなんだ、じゃあこっち買おう、できないやつよりできるやつを買おう」みたいな。それに誘導していってるという行為に加担しているという…。

 

秋山 津田さんはそういう「業の深い我々」をどういう気持ちで眺めているんでしょう?

 

津田 いやいや、僕も業深いですから分かんないです。(笑)

 

秋山 津田さんの研究は、大量生産の生み出す負のループからものづくりを切り離そうとしているところはありますよね。ライフラインを絶って生活しているという仙人みたいなこともやってらっしゃるわけじゃないですか。その中で発見したことなどありますか?

 

津田 今の生活で使っているのは小型のソーラーパネルですよね。あとは手巻きのライトとかね。それをドアノブにかけておくんですよ。部屋に入るときはそれを取ってくるくるくるっとやって家に入っていく。毎日。

 

秋山 すごいですねそれ!

 

津田 でも大体おいてある場所は決めてあるんで分かるんです。あと「月」って明るいですから。この間も満月でしたけどその時はかなり明るいし、朝になったら明るいし。あとは、電化製品といえばひげ剃りを持ってるんです。トリマー。あんまり使ってないことは見れば分かると思うんですけど…。まあそれぐらいですかね。(笑)

 

秋山 ライフラインを断ち切ることによってある種便利で最高な社会からはドロップアウトしてしまうけれども、そこで排除されていたものが見えてくるということはありますよね。僕は、というか普通に生活してたら「この前満月だった」ということは分からないですよ。分かったらいいなと思うけど肌感覚としてそれを理解してないから…。でも、月の光を糧にして生活している人にしてみたら、絶対身にしみて分かるはず。昔の人ってみんなそうだったと思うんですが、菜種の油で明かりを灯して本を読むみたいな。その感覚をすごく失ってるんだなあと思いますね。

 

津田 あと水ですね。水の温度、冷たさ。

 

秋山 冬の間お風呂はどうしてるんですか?

 

津田 だから濡れタオルで局…衛生を保たないといけないところだけ拭くみたいな。勇気があるときは、心臓に遠いところから徐々に体を拭いていきます。(笑)でも勇気がない時がほとんどですから…。

 

秋山 でも冬はものが腐らないですから。生ごみとかもちょっとぐらいなら置いといてもいいかなって感じありますよね。夏はすぐ臭うけど…って、何の話でしたっけ。

 

中田 えー、「量産以前のものづくりとFabの共通点」。

 

津田 あ、それね、話しよう。インドに旅行してきた友達が僕の部屋見て「ガンジーの記念館みたいですね」って。(笑)ガンジーが言ってたことのひとつに「大衆による生産」というのがあるんですけど、大量生産以前のものづくりとFab以降の共通点って、やっぱり「大衆が作っている」こと。大衆とか、民具の言葉だと「民」ですよね。あるいは民藝運動柳宗悦の言いかただと「凡夫」みたいな。平凡な人。

 

凡夫の創作

 

秋山 そのへんのおっちゃんとかそういう存在ですよね。

 

津田 …が、作る。しかもすばらしいものを作るという話なので、共通点としてはやっぱりそういうところですよね。それがさっきの「ものづくりの民主化」だったり、「ものづくりを通しての民主化」かもしれないけど、一人ひとりが自分の物語で生きていけるっていうか。

 

秋山 さっきの「凡夫が作るもの」って僕は大好きで。河井寛次郎さんっていう民藝運動に関わっている陶芸家がいらっしゃるんですよね。その人の「火の誓い」っていうすごい良い本があって、その中に書いてある言葉でとっても好きな言葉があるんです。

…当時、河井寛次郎さんの家はある程度お金があるから書生さんを招き入れていた。彼は朝鮮半島から来た人で日本語もあんまり分かんないけど、身の回りのお手伝いであるとかちょっとものを作るというのをやってもらっていると。で、ひまな時にはだいたい何かを作っているらしいんですよね。いつもいつも何かを作ってるから河合さんがその人のモチベーションにすごく興味を持って、「なぜ君はそんなにいろいろ作ってるの?」みたいな話をするんですよね。すると彼は「はい、作ります」って言った。日本語が完璧じゃないからそう言ったのかもしれないけど、こういう理由で作ってますとかじゃなく「はい、作ります」という答えが出てきたことに河合さんはえらい感動しちゃった、っていう記述があるんですよね。専門教育を受けちゃった人って、ある意味「洗練されちゃってる」わけじゃないですか、良くも悪くも。

 

中田 Fablabに行くと、そういう「はい、作ります」の人たちがもうゴロゴロいるわけですよね。みんな新しい異分野にチャレンジしている人ばかりなので。この間は鋳造のワークショップをやってましたよね。

 

秋山 第一回の「インターネットは最高」で触れたネット上の作家さんたちも、なんだかそういう匂いがするんですよね。これを達成するために作ってるとか、自分が有名になるために作ってるとかそういうことでは全然なくて、「なんか作っちゃう」。作っちゃったから売っちゃって、それが売れちゃってすごく人気が出たみたいな。

ゲストで来られてたhima://さんの話にもあったんですけど、自分が作ったものが人に届いて、それによってその人がすごく救われたというリアクションをもらったと。それっていうのは、大量生産の中で失われちゃったものの一つだと思うんですよね。もちろんご愛用者はがきみたいなもので「すごくいい製品でした、ありがとう!」とか、価格.comのレビューで「これはお買い得ですよ」っていうコメントがつくことはあるんですけど、例えば「あなたの作ってくれたもののおかげで、私はずっと引きこもりだったんだけど家から出られるようになりました」とか、そういうガツンと来るインパクトみたいなものは残念ながらなかなか大量生産では提供することはできない。

だけど、Fabであるとか、インターネットの向こうの有象無象のクリエイターはそういうことができると思うんですよね。今後、もっとそういう人たちがどんどんどんどん増えて言ったらいいなあと僕は思うんですけど。なんだか魅力的ですよね。そういう妖怪百鬼夜行みたいなクリエイターの群れっていうのは…。

 

arcade.sakura.ne.jp

 

中田 誰でも簡単にネットショップを立ちあげられるサービスとか、そのための仕組も新たに出てきていて、今までの「ものを作って流通させる」という素人には難しかったこともできるようになってきているので…。「凡夫が作る」っていう意味ではFabと大量生産以前のものづくりは一緒なんですけど、「ネットがある」というところが圧倒的に違うなと思うんですよね。

 

秋山 でもインターネットに限らず、昔だったら凡夫がものを作ろうと思ってもレーザーカッターもないし3Dプリンタもないし、ミリングマシン(切削機)もないし。でも今は全部あるわけですよね。

 

津田 インターネットもそうだし、こういうデジタルな工作機械を使うと「制作物」もできるんだけど、同時に「つくりかた」もできてくる。図面もできるしプロセスもそう。それをネット上で共有していこうっていうことなんですよね。これまでの「つくりかた」とは広がりが違うんですよね。

 

中田 その地域だけではなくて、地球規模で広がっていくというところがありますよね。

 

秋山 Thingiverseというウェブサイトがあって、そこにはもののデータやその「つくりかた」も一緒に書いてある。Instractablesっていうウェブサイトはいろんな「やりかた」が集まっているとか。それを英語さえ読めれば共有できる。どこにいても「○○のつくりかた」がわかるようになる。ソファの直し方もわかるし、インターネットと会話するもののつくりかたもわかる。それってすごいことですよね。昔は熊さんの隣にいる八っつぁんしか教えてもらえなかったけど、今は僕がインドの人からものを教わることもできる。

 

中田 しかもそれが圧倒的に低コストで…というかほとんどタダでできる。3Dデータをダウンロードしてくれば、自分の家の3Dプリンタでそれが作れる。複製可能になってきているんですよね。

 

津田 熊さんが日本にいて八っつぁんがアメリカにいてもいいわけですよね。ただ時差があるっていうのがあって、さっきのFabacademyでいうと、ボストン時間の朝9時から12時でやるんですね。当然他の国はどんどんずれてくる。日本は夜11時から2時とかなんですよ。だから他の国と全然テンションが違うんですよね!他の国は昼だからすごいテンション高くて盛り上がってる中で僕らは一仕事終えて寝る前みたいなテンションで受けるんですけど…。そういうことはあるけど、世界中で瞬時にデータのやりとりができるっていうのはすごく大きいですよね。

 

中田 データの交換がタダでできることにはいいこともあるんですけど、作った人への利益の還元というのも難しいところで。

 

秋山 「儲からない」ってやつですよね。

 

中田 そうですね。作る人のモチベーションを維持するための、それこそサスティナブルな仕組みが必要なんじゃないかなと思うんです。

 

秋山 「儲からない」って問題はすごく切実な問題ですよね。儲からないものってダメなんです。最悪な言い方なんですけど…でも、インターネットの人やFabの人でも儲かってる人はいて。それって僕はすごく良いことだと思うんです。こんなこと言うと金の亡者だと思われるかもしれないんですけど。例えば今自分が作っている制作物って全然儲かってないんです。明らかに赤字なので、それで生きていこうと思ったら「まだ無理だな…」って思う。儲かりたいという気持ちもないわけではないし。今自分がこういうことをやってられるのは会社に時間を払ってものを作ってお金を得ているからできることなんですよね。

儲からない…。(笑)

 

津田 いろいろ考え方はあると思うんですけど、ひとつは物を売って稼ぐんじゃないというのはあると思います。サービサイズみたいな言い方とか、あるいはプロダクト-サービス-システム、PSSって言ったりしますけど…。ものを切り売りして稼ぐのではなくて、それを作る「時間」とか「体験」とかに値段をつけていくというのはあるかなと思うし。

 

秋山 それをすごくナチュラルにやっている人ってもういると思うんですよね。先々週来てくださったはりーさんなんかはまさにその通りなんです。はりーさんはTwitterを通じて自分の作ったスカーフを売っているんですよ。すごくきれいで素敵なスカーフなんだけれど、それを買っている人はある意味スカーフを買っているわけではない。そのスカーフに込められたはりーさん自体の物語であるとか、あるいは「スカーフを買ったことによって発生するコミュニケーション」を買っている。そういう意味でも、ただものを売るだけじゃなくてその周りにある体験とか物語とかに値段をつけるというのは、やりかたとして良いなという気がしますよね。

 

arisaharada.com

 

中田 それは素晴らしい仕組みだなと思うんだけれど…やっぱりもう一歩欲しいなというところは「(アイデアなどの)無形のものに対して対価が発生する」ということに対して…ソフトとかテクニックとかに対してのリスペクトがまだまだ足りないなあと思います。

秋山 要するに「金払ってくれよ」っていうことですか(笑)。

 

中田 まあ(笑)平たく言うとそうなんだけどちょっと違うところもあって、「デザイナーなんだしちょっと絵描いてよ」みたいなことってあるじゃないですか。ソフトとかテクニックとかが軽んじられているというのはそういう時にも感じます。

 

Fabのそれから

 

秋山 いま中田さんが言ったとおりで、インターネットのものづくりにしてもFablabから出てくるものづくりにしても、多分「もう一つ」何かあるはずなんですよね。なんだろうと思って。

 

中田 企業のものづくりと違うところとして知的財産権の話があって。特許ですよね。何かを初めに作った人が独占的に使える権利で、使いたかったらそれに対してお金を払わなければいけないっていう…アイデアっていう無形のものに対して報酬を得られるという仕組みがもともとあるんだけど、Fablabみたいなところでやってることだとそれがなかなかやりにくいし、そもそも特許を出願すること自体が金銭的にも手続き的にもすごくハードルが高くって、個人で出そうと思ってもほとんど無理ですよね。

 

秋山 いくらぐらいかかるんですか?

 

中田 弁理士さんに頼むと1件出すだけで20万とか30万とか。

 

秋山 すごいリアルな金額ですね。

 

中田 しかもそれがペイするかっていうとそんな保証もないわけで。僕は全然専門家とかではないんですけど、今の特許制度みたいなものは完全ではないと思います。

 

津田 Fablabの中にも「Fablab Japan Network」というのがあって、それは組織ではなくてネットワークなんですけど、メンバーには国内のFablabの運営者の他に法律面を考えていく「Fabcommons」というチームがあって、弁護士の方や特許庁の方もいたりとか。そういう風に法律とかも作ってかなきゃいけないというのがありますね。Fablabも、「Fablab」を固有名詞として商標を取ったんです。それは権利を守るため、独占するためじゃなくて良い運用をするために取った。

で、それをオープン・トレードマーク・ライセンスにしたり、色々と枠組みを作って試しているんです。法律的にもちょっと試していることがあったりして。「クリエイティブ・コモンズ」とか、既存の仕組みはあるんですけど、それは著作権についてのものなんですよね。やっぱり特許みたいなものは色々と難しい。3Dプリンタなんかも最近盛り上がっているのは結局特許が切れたから。それがブレイクスルーなんですよね。

 

fabcommons.org

 

そういう風に、守られている間はそれに手を出せないという部分もあって。特許に関してはこれからだと思うんですけど、著作権に関して言えば、著作者が自分の作った著作物に対して「こういう風に使っていいよ」ということを自分たちで決められるようになったらいいなと。ただ最近の議論で、作った人じゃなくてもそれを申告できるようになるっていうとそれはまた別の話で、僕らはそういうことについてもアクションしていこうとしているんですけど。

 

秋山 本当に真逆の力が働いていますよね。企業の場合、「うちはこんなに良いものを作った。他社に作られると損だから絶対に内緒にしておこう。技術も真似されちゃったら嫌だから特許を取って保存しておこう」と。でも逆にFablabみたいなところではオープンにしていく。「こんなものを作ったからみんな見てくれ。それを下敷きに何かしてもいいよ」みたいな。お金は得られなかったけど、沢山の人が見てくれたということ自体が良かったということもあるし。

アメリカの個人用3Dプリンタを作っているメーカーで一番有名な「Makerbot」という会社があるんですけど、そこは自社製品の中身を公開していて、改造したり直したりしていいですよという風にしていたんです。それを「オープンソースハードウェア」って言うんですけど、でもある日「いままではそういう方針でやってきたけど、もっと成長したいのでちょっとクローズドに(秘密に)させてくださいよ」と言ったんです。その時に「おいおい」っていう議論がすごく巻き起こったらしいんです。それすごいなと思ったんですね。「おいおい」ってなるんだ!という。

 

中田 普通の企業だと普通にやってることなんだけど、なんかみんな「期待してたのに裏切られた…」みたいな感じになってましたよね。

 

秋山 そうそう!「俺たちのMakerbotがそんな姿に…!」みたいな。

 

津田 さっき話に出たThingiverseMakerbotは連携してるから、Thingiverseに投稿されたものはどう扱われるんだとかいろんな問題がありましたね。

 

秋山 でもその問題も、Makerbot側の言い分は分かるじゃないですか。利益を出そうと思ったらある程度は囲い込んでやらなきゃいけないし、いつまでもヒッピー的な理想郷に生きてるわけにもいかないし。折り合いを取っていかないといけないんだろうなということは感じますよね。

 

中田 今がその過渡期っていうのがあって、なかなか仕組みがまだ追いついていないんです。法律関係の人たちも一生懸命頑張ってくれているけど、回していけるだけのシステムが確立されていないっていうのはでかい課題です。

 

津田 法律もそうだし、その前提となる「権利の主張」って世界中ですごくされてるんです。「直す権利」とか「作る権利」とか。いろんなマニフェストが掲げられている状態ですよね。

 

秋山 お店で売っているものには「分解しないでください」って書いてありますもんね。「警告:分解しないでください」みたいな。

 

中田 へえー。そうだっけ。

 

秋山 説明書とか読むと全部書いてあります。分解した場合保証は効きませんよとか。

 

中田 ちょっと話変わっちゃうんだけど、昔の電子レンジとかって側面に貼ってあるステッカーに回路図が載ってたりするの、ない?

 

秋山 えっ? うちのやつはそんなことないですよ。

 

中田 15年くらい前のやつだと…ありますよね。サービスマンがあれを見て直すためにあるのかなとか。

 

秋山 昔のラジオ少年みたいな人だと、そういうのすぐに直せちゃいそうですよね。

 

中田 そういうのを見かけた事があって、「これってオープンソースハードウェアなんじゃないの?」って。

 

秋山 昔はやってたと。

 

津田 やっぱりエレクトロニクスが入ってきてからがらっと変わったんですよね。その前のメカトロニクスというか、機械じかけのものって中が分かるんですよね。だから修理できる。エンジンとかまではできるんですよね。でも今は電子制御になってすごく修理に対する敷居が高くなってしまった。

またすごい話変わりますけど、小豆島で飛行機を作ってた人がいるんですよ。水上機。今はもう亡くなられてるんですが、自分で工房も作って飛ばしてた向井さんっていう方がいらして。その方はフォルクスワーゲンから取ってきたエンジンを積んでプロペラ回して飛行機を飛ばしていた。紅の豚みたいな世界ですよ。

紅の豚の場合はフィオって女の子が設計して主人公のポルコが操縦するんだけど、向井さんの場合はエンジニアと操縦者が一緒なの。しかも、高松の方の飛行場に行けばちゃんと飛べるんだけど、滑走路を予約するのが面倒だから海の上で離着陸できるようにしたりとか、そういうところまで自分で作っちゃってるんですよ。

 

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中田 すごい。

 

津田 その人は自動車の整備士だったんです。だからメカトロニクスは理解できるし、飛行機でさえ自作できる。でも電子制御が入ってくると難しくなっちゃって手に負えなくなってしまうんです。

 

秋山 ちょっと前の世界を題材にした映画とかだと、車がブスンって止まっちゃって「なんだよこのポンコツは!」とか言いながらボンネットを開けてグリグリやるシーンって自然にあるような気がしますね。

 

津田 ちょっと宣伝になるんですけど、このギャラリーの河上さんも関わってる「茨木と小豆島」っていう冊子に「ネイティブ・ファブリカントを訪ねて」ってコラムを書かせてもらってて、それに先ほどの向井さんの話を書くのでぜひ読んでください。茨木市と小豆島って姉妹都市なんですよ。両者を結ぶ「親善大誌」としてフリーペーパーがあって、1号目が「小豆島と茨木」で、今年出る2号が「茨木と小豆島」なんです。そのフリーペーパーはここで配ってるので、ぜひGLAN FABRIQUEに来てください。

 

秋山 皆さんぜひチェックをお願いします。

…本当にさっきの通りですよね。車のフタを開けて直す人はいるけど、スマートフォンが壊れたからってその場でカバーをこじ開けて直すみたいなことはできないし。限界がありますよね。

 

津田 「iFixit」っていうサイトがあって、そこにはMacbookとかiPhoneとかの修理の仕方がとっても丁寧に書いてあるんです。でもやっぱり基板の細かい部分までは直せないんですよね。

 

jp.ifixit.com

 

秋山 部品を買ってきて、こういう風に交換したら直せますよということですよね。

 

中田 電気製品の中身がどんなモジュールになっているのかとか、壊れたときにどこを交換すればいいのかがわかるサイトですね。

 

秋山 (iFixitをスライドに映しながら)これすごいですよね。部品も売ってるし…

 

中田 部品も売ってるし、iPhoneをこじ開けるための専用の治具みたいなものも売ってる。(笑)傷つかないように開けるマイナスドライバーみたいな形をしたようなやつとか。

 

秋山 津田さんと最初にお会いした時にこれ(iPhone)が割れたので修理したいと思います。

 

津田 最初に会ったとき…あ、こないだ?

 

秋山 はい。この間飲んだ時に…。

 

津田 いや、最初に会った時は電化美術の展示ですよ。暗がりで展示してたランプみたいな作品を出してた。真っ暗な部屋で、作品に光を当てると音が出るっていう。

 

秋山 それを見ていただいて。

 

津田 あの時は自己紹介してないから誰だかわからなかったと思うけど。

 

秋山 でもなんとなく認知してました。その界隈の方なんだなっていう…。で、調べてみたら津田和俊さんという人がいることが分かって。すごく…野生っぽいことをされているという。

 

津田 そのときに「春琴抄」の話をしたんです。それと「陰翳礼讃」と。覚えてます?

 

秋山 覚えてないです。ごめんなさい。

 

津田 谷崎潤一郎の「春琴抄」と「陰翳礼讃」という有名な作品があるんですけど、それを組み合わせた舞台があるんです。深津絵里が主演やってるやつ。秋山くんの作品をみてその舞台を思い出したんです。で、その話をしたんです。

 

http://keitaakiyama.com/post/69484169115/映響機-magic-lantern-of-sound-2013-wood-glass

keitaakiyama.com

 

秋山 …ごめんなさい。(笑)

 

津田 (笑)でもいい作品だった。

 

秋山 ありがとうございます。僕がつくりたいものも、ハイテクなものを目的にしてるわけではなくて、その先に…「ずうっと大昔の毛の生えた猿みたいな人が洞窟で火にあたって、あったかい」みたいな強い体験をもったものを作りたいと思っています。

 

プリミティブ・センサー

 

中田 秋山くんの作品を見て毎回思うんだけど、どんどん遡っていってるなって(笑)流木に釘打って回路を作ってみたり、空き缶くっつけたりとか。

 

秋山 そうですね、どんどん時代を遡って、というか先祖返りしていってる。

 

津田 なんで気が合う感じがするか分かった、今!

僕もクラブイベントで洞窟に達磨の絵を描いたことがあるんですよ。達磨の大きな絵を描いてパフォーマンスしたことがあって、そこにホッカイロをバーンって貼っていく。「あったかい絵」を、っていう…

 

一同 (笑)

 

津田 来場者みんなにカイロを配って、ペシペシ貼ってもらうみたいなのをやったことを思い出しました。

 

秋山 「この絵を見るとあったかい気持ちになる」とかじゃなくて、物理的にあったかい。

 

津田 その前でジャズを演奏するっていうイベントでした。

 

秋山 それはもう、すごくあったかいですね。(笑)

…中田さんの作品もそうですけど、「今あるものだけがすべてじゃないぞ」っていう態度というか、そんなところはこの3人で共通してるポイントかもしれないです。今あるものは氷山の一角で、その裏にはあんなものもこんなものもあるんだけどみんな見えてない。それを自分だけでもなんとかして見たいという姿勢、って言うんでしょうか。

 

中田 看過してるというか、「見えてない」っていうより「隠してる」って感じかもしれない。いいところだけを見せるというか。製造業はそういう業を抱えてますよね。

 

秋山 そんなことをしていてすみませんという感じですけれども。(笑)

 

 

秋山 今日話したかったことの一つに「身体性」というトピックがあります。人間は体を持って生きている以上、いくらインターネットが進化しても自分の身体性を切り離すことはできないと思うんですよね。

よくSFで、自分の人格を全部ネットに流出させてしまって、体はないんだけどなんとなく存在しているみたいなテーマってあると思うんですが、僕はそういうのって面白くないんじゃないかと思うし、そういうバーチャルな体験に全然興味がないんです。握手とかできないし、髪の毛とかも生えてないわけじゃないですか。全然良くないと思うんです。

僕は決して体が丈夫な方じゃないんですがそれ故に感じる身体性みたいなものがあって。「低気圧が来てて頭が痛い」とか…。そういうのって、強い人って分からないものなんですよね。それは一方で「強くて便利」なんですけど、逆に考えると「センサーが鈍い」という言い方もできますよね。ひがみっぽい言い方ですけど…。

 

中田 多分そういう繊細な人はセンサーの感度に優れてるんですね。津田さんが水の温度で季節の移り変わりを感じるみたいに。

 

秋山 ライフラインを断ち切ることによってそういう状態を作り出しているってことですよね。

 

津田 昨日僕、大阪で写真家の津田直さんっていう方の講演会を聞きに行ったんです。ミャンマーの「ナガ」っていう場所に住んでいる方をフィールドワークしたものを作品にしていたんですけど、そこは寒い地域なのにタンクトップ一枚くらいの薄着の人がいるって言ってたんですよ。それはなんでなんだろうっていうのを考えた時に、感度っていうかセンサーの鋭敏さを保つためなんじゃないかと話されてたんです。服とか「技術」をまとっていたら気づけないような気配を皮膚感覚で感じることができるからなんじゃないかって。ちょっとそれはつながるかなって。

 

秋山 ビンビンにつながりますよ。

 

中田 衣食住の「衣」の部分をあえて取っちゃってる。

 

秋山 僕らのいつもの生活が「ものすごく保護されたもの」と考えることもできますよね。もし今日外に服なしで出たら、僕は明日ぐらいにはお亡くなりになってるんじゃないかと思うんですけど、(笑)でも服を着てるから大丈夫っていう。

 

中田 服も着てるし、屋根のついたところにいて暖房つけてるし。

 

秋山 でも「それだけじゃない」っていう。

 

津田 センサーのついたデバイスっていろいろあるけれど、僕らの体にすでについているってことだよね。

 

秋山 皮膚の感覚であるとか、目とかいろいろついている。

 

未来のいるところ

 

秋山 今日はあの話もしたしこの話もしたしと、良い意味でとっちらかってたなと思います。多分Fablabとかこれからのものづくりっていうのは、「こうだからこうなっていいものができました」という直線的なプロセスではなくて、同時多発的にいろいろなことが起こって、そのカオスの中からなにかがもやもやっと生まれてくるようなものになるんだと思います。

ある目的に対してひとつの方法しかないのではなく、多くの選択肢がある状態。それを与えてくれることが、Fabっていう力のすごいところかなと思うんですよね。未来は前にだけあるんじゃなくて、横にもあるし上にもあるし後ろにもあるっていう。今後、自分の作るものにそういう力が備わっていったらいいなと思います。お二人にも今日お話を伺えて本当によかったなと思います。

 

津田 もう終わるの?

 

中田 すごいキレイにまとまった的な…。(笑)

 

秋山 時間がそろそろあれなんですけど、(笑)最後にこれだけは言っておきたいということがありましたら、お願いします。

 

中田 過不足ないですね。(笑)

 

津田 …「とっちらかってることの可能性」ってやっぱりあるんですよね。Fablabを日本に広めた中心人物の田中浩也さんがおっしゃってることなんですけど、「creative mess」っていう言葉があるんですよね。創造性のある混沌というか、とっちらかってる状態。散らかってるんだけどそれがあるお陰で次の想像力を生むという。この展示みたいな感じですよね。

 

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秋山 この展示はあえてとっちらかってる感じにしたんです。

 

津田 坂口安吾の部屋みたいな、こういうとっちらかってる感じがあって、そこから何かを拾っていく。拾っていくのはもちろん自分たちがそれぞれに拾っていけるっていうか。だから…すごく良い展示だったと思います。

 

秋山 ありがとうございます。(笑)お褒めの言葉を頂いて光栄です。

中田さんはいかがでしょう。今後のデンビの活動も含めて…

 

中田 そうですね、最初に紹介した「人の知覚」みたいなところはずっと興味があるし、あとやっぱりメーカーに勤めていて、人を騙しながら(笑)やってるんで、そこに対する責任というか、批判的な目を持ち続けていきたいと思っているので…ますますものを作りたくなった、今回のトークでした。

 

津田 もう一個いい?あとやっぱり、秋山くんの作品で特徴的なのは、植物というか、生き物を扱っているところだと思うんですよ。Fablabも、流れとして「how to make」だけじゃなくて、「How to grow almost anything」っていうのを言い始めててるんですよね。育つものとか成熟するようなもの。

 

Bio Academy —HTGAA

 

生命を持ったものまで作れないかという。wet labとかBio labとかDIY bioとかいろいろ言葉はありますけど、メカトロニクス、エレクトロニクスだけじゃなくてバイオロジカルなところにも取り組んでいこうっていう話があったりしますよね。

 

〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術 (講談社現代新書)

〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術 (講談社現代新書)

 

 

Fablabっていうのはもともと「デジタルファブリケーション」(デジタルなものづくり)の実践と言われてるんです。僕たちはすごくそれを享受してるんですよね。パソコンもインターネットもみんなそうなんですけど、もとをたどればシャノンの通信の発明だったり、フォン・ノイマンの計算機だったり…。でも、自分たちの体にも、そもそもデジタルな要素が含まれているっていうのもあるんですよね。DNAと遺伝子とゲノムってあるじゃないですか。DNAは物質で、遺伝子とかゲノムとかっていうのは情報。それを組み上げるリボソームがあって生命がつながっていったり進化していったりするんです。で、それはデジタルな情報のやりとりにすごく近い。

だから秋山くんの作品とか次の展開っていうのはすごくいろんなところにあるなあって思うんですよ。いろいろ一緒にできたらいいですよね。

 

秋山 ぜひ。(笑)育てたいですよね、木とか。

すごく好きな小説で「木を植えた人」っていうのがあるんですよ。戦争でぐちゃぐちゃになっちゃった土地にひたすら木を植えまくったおっちゃんがいて、その人がいたおかげで—いまはそのおっちゃんはいないんだけど、綺麗な森が生まれたみたいな。すごくいい話だなあって。僕はすごく小さい頃にその話を誕生日プレゼントでもらって。今思えば母のすごいセンスだったなと。(笑)でもそういうことができたらいいなと思います。氷山の一角だけじゃなくて、もっと大きな視点で見て、あれもあるしこれもあるっていう…そういうところにアクセスできるものづくりができたらいいなと思います。

 

それから、ちょっと告知になるんですが、いまこの「想像力の談話室」の内容を全部原稿にしようという作業をやってまして…やってもやっても終わらないんですけど、でもなんとか終わらせて本を作りたいなと思ってます。今回の展示っていま津田さんが言ってくださったように、とっちらかって「なんにもない」んですよね。こんなすてきな作品ができたから見てくださいっていうものじゃなくて、こんなものもあるしあんなものもあるんだけど、まだ全部卵の殻を被った状態。

でも、それを一回かきあつめてみて、いろんな人に観てくださいっていう展示だったと思うんです。それを一回自分の中でグワーっとまとめてみて、一冊「薄い本ならぬ厚い本」を作ってみて、それをまた読んでもらいたいなと思ってます。自費出版というかZINE的なものになると思うんですけど。

で、この前にどんな未来があるのかわからないんですけど、みなさんと一緒にそれを見られたらいいなと、思ってます。

 

津田 哲学者の鷲田清一さんの『想像〉のレッスン』っていう本があるんですよね。その中に、「想像」とはなにか…それは、いまここにあるものを手がかりに、ここにないものをたぐり寄せる手がかりだ」っていう話があるんです。それを最後にちょっと。

 

〈想像〉のレッスン    NTT出版ライブラリーレゾナント015

〈想像〉のレッスン NTT出版ライブラリーレゾナント015

 

 

秋山 わぁ〜、ありがとうございます!

 

中田 さすがですね、大学の先生ですね。(笑)

 

秋山 ということで、津田さんに最後いい言葉を頂いたところで…

 

一同 (笑)

 

秋山 なんですか!?僕そんなに変なこと言ってないですよね!(笑)

…こんな感じで、とっちらかった展示であり、とっちらかったトークだったんですけど、その先になにかあるといいな、という回でした。

みなさま、本当にご来場いただき、この話にお付き合いいただきありがとうございました。また今後の展開をお楽しみに、ということで、一旦中締めとさせていただきます。ありがとうございました。

 

津田&中田 ありがとうございました。

 

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豊島美術館に行ってどえらい感動した話

 

連休の前の平日に休みが取れたので、一泊で瀬戸内海の豊島に行ってきた。

長いこと行けずにいた豊島美術館を訪れるためだ。

 

豊島はアートの島として有名な直島のすぐそばにある。僕は大阪から鈍行列車で宇野まで行き、そこからフェリーで島に向かった。

 

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瀬戸内らしい穏やかな海が島を取り囲んでいる。防波堤の水面にはまるで池のような静かな波紋が広がっていて、港を離れたフェリーのエンジン音が聞こえなくなると、辺りは気持ちのよい静かさに包まれる。しばらくするとその静かさの中から、波のノイズや鳥の声、草木が風に揺れる音が聞こえるようになる。

 

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豊島には家浦と唐櫃という二つの港があり、美術館は唐櫃港から少し離れた丘の上にある。

丘に向かって歩いていくと、あるところで視界がひらけ、いまでは休耕畑となった段々畑が目に入る。それからもうしばらく歩くと、豊島美術館の入口だ。

 

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この美術館には所蔵作品が一つしかない。現代美術家内藤礼が作った「母型」という作品を展示するためだけの施設。パンフレットによると、建築とアートが一体となったものだという。

受付で入場料を支払ったあとに、細い散歩道を歩くように案内された。海に向かってしばらく歩くとちょっとした展望スペースがあり、瀬戸内海の島々、海が見渡せる。またしばらく森の中を進むと、白い洞窟のような建築―作品展示スペースにたどり着く。

 

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建物に入る前に、係の方から簡単な説明を受ける。

中には靴を脱いで入ること。

足もとにとても小さい作品が散りばめられているため、十分気をつけて鑑賞すること。

とても音が響きやすい空間なので、携帯電話の音が鳴らないようにすること。

 

 

 

靴を脱いで、ほとんど恐る恐る建物の中に入ると、大きなドーム状の空間がぽっかりと広がっていた。

ドームの天井は低く、そのかわりに面積が大きい。天井と壁は区別されておらず、スムーズにつながっている。その様子は、人工的な建築空間というより、水の流れが地中をなめとってできた洞窟のようだ。

空間の奥、左右にはそれぞれ、天井にフリーハンドで描いたような大きな円形の穴が空いており、そこから光が差し込んで床に落ちている。明るいグレーの床に落ちた光は天井に反射し、大きな空間をほの明るく照らし出している。

 

豊島美術館の建物は、建築家の西沢立衛によるものだ。先に建築をつくり後から作品を設置するのではなく、建築とアートが溶け合い一つの場となるよう、建設の場所選びから作家と話し合って作り上げたという。

 

http://benesse-artsite.jp/art/assets_c/2015/10/teshima_museum_top-thumb-1440x967-152.jpg

ベネッセアートサイトwebサイトより引用

 

空間の心地よさを感じながら奥に進むと、床を何かが滑っていくのに気づく。虫かなと思ってよく見ると、それは大きな水滴なのだった。

一つの水滴は蓮の葉を滑るように転がり、別の場所にある水滴につながる。滑ってきたそれは波紋になって吸い込まれ、代わりに大きな水のかたまりがゆっくりと動きはじめる。

 

http://benesse-artsite.jp/art/uploads/art/teshimamuseum/artist.jpg

ベネッセアートサイトwebサイトより引用

 

しずくの源を目で追ってみると、その源流には指でつまめるほどに小さい、玉の形をした彫刻があることがわかる。

蝋か大理石のようなその彫刻をしばらく見ていると、てっぺんに空いた小さな穴に水が盛り上がり、やがて重力に耐えられなくなってこぼれ落ちる。落下した水は床のゆるやかな傾斜をつたって他の水滴と合流し、別れ、やがて大きな水たまりにたどり着く。彫刻はひとつの泉であり、それが空間のなかにいくつも設置されている。

 

開口部になにかが光っているのを感じてよく見ると、穴の縁から薄いリボンが吊るされ、風の動きにしたがってふわふわと舞っているのに気づく。見えるか見えないかの細い光沢糸で織られたリボンは、ほとんど重さのない煙のように振る舞い、光を反射してきらきらと表情を変える。

 

 

この空間には沢山の繊細なものたちがあり、時間が経つにつれその一つ一つが見えるようになっていく。最初は何も見えないが、巧妙に設置されたオブジェクトにより、感覚の皮を剥がれるように、少しずつそれらに気付かされていく。

 

鑑賞者は思い思いの位置からリボンや小さな泉、皿の形をした彫刻、大きな水たまり、水が消えていく穴、光、糸、他の鑑賞者を眺めている。黒人や白人の方もいたが、みんな何か尊いものを見るような表情で佇んでいるのが不思議だった。

 

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僕は、この空間は、自然を可視化する装置であり、豊島のミニチュアなのだと思った。

泉の彫刻は地下水によってなりたっており、その様子を見つめることで、豊島が豊かな湧水を持っていることがわかる。

リボンを見ることで、風のはこびと光の降る様子がわかり、空間の中に透明な空気が満たされていることが意識できる。

開口部から除く木々が、コンクリートのグレーと対比されて、いつもより鮮やかな緑色に見える。

 

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この島は自然の中にあり、それはとても貴いということ。

豊島美術館は、一人の作家の感性を通して、それが追体験できるように設計されている。(豊島の歴史を調べると、そのことがいっそう大切なものだと感じられる)

インスタレーションには、サイト・スペシフィック、その場所でなければいけないものという形容があるが、この美術館はまさにそれだ。この島にもともとあった価値、しかし普段は意識もしないような当たり前のものごとを、はじめて地上を見るように鮮やかに感じさせてくれる。

 

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美術館を出たあと、目の前にある景色をよく見ようと思った。

世界はとてもきれいだ。

それをどのように見て、どのように感じるかは、僕ら一人ひとりに託されているけれど。

 

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「インターネットは最高」トークショー再録

 

2年前のちょうど今ごろ、初めての個展「想像力の部屋」を、大阪茨木のグランファブリックさんで開催した。会期は3週間で、週末ごとにゲストをお呼びしてトークショーをやってみた。全三回で、けっこう好評だったんです。

「インターネットと創作」「インハウスデザイナーとしての創作」「Fabberとしての創作」について聞くため、それぞれの分野の専門家に話を聴いた。

 

その原稿はプライベートワークの作品集(お蔵入りになった)に掲載したり、ネットプリントのZINEとして配布したりしたのだが、かなり量もあり、このまま眠らせておくのももったいないなということで、この度こっそりブログに再録いたしました。

 

連続トークショー「想像力の談話室」vol.1

第一回「インターネットは最高」ゲスト:はりー / hima:kawagoe

 

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秋山   今日は、ゲストにはりーさん(@hurry1116)とhima://さん@ekimae)をお呼びしています。TwitterFacebookでも告知させて頂いていたのですが、今日のタイトルは「インターネットは最高」です。

このタイトルは、はりーさんが自分のTwitterの固定ツイートに「今年もインターネットが最高でありますように」っていうものをされていて。

 

はりー  「今年もインターネットが最高でありますように」。

 

秋山  これはいいわ、もらっちゃえということで、勝手に頂いてしまったものです。僕は、家庭用品のメーカーでものの形をデザインするという仕事をしているのですが、会社のために製品をデザインするということと、自分の想像力をはたらかせて作るものとはやっぱり性質が違うなと思います。

hima://さんは、イラストを描いたり、MEMEOというアクセサリーをデザインしたり。はりーさんもイラストを描いて、スカーフ、ハンカチーフなども作られているんですよね。そんな作品を通して、お二人の「魅力のつくりかた」についてお尋ねしたいです。

また、お二人の作品の魅力が、人格というか…人となりにめっちゃ密接に結びついていること、それがすごいところ、いいところだなあと思います。そこについても訊きたいなと思い、今日のトークを企画いたしました。

 

インターネットと「もの」

 

秋山  今日は3つのキーワードを用意しています。

一つめは、「なぜインターネット上で『もの』を作るのか?」。イラストレーションやアニメーション、音楽とかは、すごくネットと親和性があるメディアだと思うんです。すぐ拡散できるし、より多くの人に見てもらえる。その中であえて「物体」というか、直接手渡するなり、郵送するなりしないといけない「もの」をなぜ作ろうと思ったのか。

 

次に、「ネット上では、ものを媒介になにがやりとりされているのか?」。ネット上の作家さんからものを買うっていうのは、お店にいってものを買うことと、またちょっと違うかなって気もするんですよね。作家さんと話をして、その体験プラスものも手に入る。そのコミュニケーションが、めちゃめちゃ新しい。好きだなと思うんですね。

 

それから、これは今日の朝からずっと話していた、一番激アツなテーマかと思うのですが、「自分自身を強くものに反映させるのはなぜ?」ということ。また、それをどうしてやるようになったのかを、3人でざっくばらんに話していければなと思ってます。

順番が前後しちゃって申し訳ないんですが、hima://さん、自分の作品のことを、自己紹介も兼ねて喋って頂けますか?

 

hima://  hima://KAWAGOEと申します。元々はイラストを描いていたんですけど、瞳のアクセサリー「MEMEO」を作ったところ人気が出て、もうイラストはやらなくてもいいんじゃないかと思って、ブランドを立ち上げて「イラストレーションを基盤にイメージをしながらものを作る」ということを、今はメインにしています。自分のやりたいことをやりたいだけ、やってます。

 

秋山  これで利益が出るっていうところまでいってるわけですよね。

 

hima://  そうですね、沢山の人に迷惑をかけて、今年からやっと食べられるようになりました。

 

秋山  すごい!サラリーマン的には、それがめっちゃすごいと思います。その「MEMEO」が、一番最初に作ったものなんですよね?

 

hima://  一番最初に作ったものはこの「ゲロT」ですね。嘔吐をモチーフにしたTシャツ。これ(スライド)はそれをイラストにしたものなんですが。

裏があるようなものを出来る限りポップに、みたいなものを作ろうとして、「性的殺意」というブランドを作ったんです。MEMEOは、イラストの瞳が特徴的だと言われ始めて、それを真に受けて…。

というのは本当は嘘で。

 

秋山  (笑)

 

hima://  つけまつげを間違えて買っちゃって、それをリサイクルするために始めたものなんです。レジンを使ったものも流行ってるしという感じで。で、写真を上手く撮りすぎたせいですごい拡散されてしまって、「あっ、まいったな…」と。

 

秋山  hima://さんのブログをさかのぼって行くと、「めっちゃバズってしまって、対応が全然追いつかない」みたいな話が載ってましたよね。嬉しい悲鳴みたいな。

 

hima://  全然嬉しくなくて!10個くらいのつもりで、価格をすっごい安くしちゃったんです。そしたら100件。海外からも来てしまって、結局さばくのに半年から一年位かかってしまって。

 

秋山  それが初代で、今は二代目ですか。

 

hima://  二代目ですね。

 

秋山  一番最初にMEMEOを発表したのはpixivなんでしたっけ?

 

hima://  そうです。pixivに、何の気なしに「ものだけど大丈夫かなあ…」みたいな気持ちで投稿したんですけど。

デイリーランキングで一位になっていたりしてたらしくって。

 

秋山  ええー! すごい!

 

hima://  そこからTumblrで拡散されたみたいんなんですけど。当時、pixivを見て自分の評価を決めていないつもりだったんです。そう思って毎日見てたんですが、ランキングを見た時に、「ああ、私は気づかないうちにpixivに合わせてたんだな」と。で、もうやめようみたいな。その一週間後くらいにpixivをやめて、Tumblrに。

 

秋山  今はもうpixivのアカウントはないんでしたっけ。

 

hima://  ないです。

 

秋山  じゃあ、webページも自己紹介ついでに。シャレオツなやつがありますね。ここに展示のトークのお知らせも書いてもらってて。本当にいろんなことをやってるんですよね。音楽ジャケットを作ったりとか、MEMEOもやったり。桑沢デザインを卒業されてから、いきなりフリーになられて、今4年目でしたっけ。3年目?

 

hima://  3年経ちました。たぶん…。あんまり覚えてないんですけど、たぶんそんな感じだったと思います。

 

秋山  やっぱり去年ぐらいですか?手応えが来た!っていうのは。

 

hima://  そうですね。3月13日(注:2015年の3月)から「キモチFeel so good」という個展をやるんです。これが貳なんですけど…同じ所で、第一回を去年2月のバレンタインあたりにやりまして。ギャラリーの場所が秋山さんとあけたらしろめさんのやられてたところで、そこがすごい良くて。そこで今の基盤になるようなものを沢山出したところいろんな出会いがあり、それを今年はちゃんとしていきたいと思う所存です。(笑)

 

秋山  なるほど。(笑)

では、引き続きはりーさんの紹介です。そもそも僕がはりーさんと知り合いになったのが去年の年末で、直接会うのが3回目です。なんですが、制作に対する取り組み方というか、興味の方向がすごくウマが合って。はりーさんは、Twitterがめちゃめちゃ面白いんですよね。もしかして、今日来られている方ははりーさんのファンがいるんじゃないかと思っているのですが。…タイムラインを出してみてもいいですか?

 

はりー  どうぞ。

 

秋山  これですね。(会場のスライドにはりーさんのTLが表示される)Twitterを見てみると、今日の行動がもう丸わかりになりますね。

 

はりー  実況中継してました。(笑)

 

秋山  お昼カンテで食べてましたね。で、なんというか、はりーさんのすごいところって、自身の作品とかもそうなんですけど、ちょっとした日々のコーディネートだとか自身の言葉みたいなところも含めて、はりーさん自体がインターネット上のコンテンツになっているようなところがあるんです。単なるイラストレーターではなく、テキストレーターと名乗ってらっしゃるその通りですね。それがえらい面白いなあと思って、その感じを訊きたいなあと。だって、この詩とかすごい綺麗なんすよ! 僕がこれをやったらすごい恥ずかしい感じになっちゃうと思うんですけど、すごくキマっているというか。

フランスに一週間ぐらい出張されていたんですよね?

 

はりー  あ、そうです。

 

秋山  で、その間に、パリのヤバい人々みたいな「ぱりー日記」を描かれていたりとか。非常に気になる存在にいきなりなってしまって。インターネット上に、自分の絵であるとか言葉であるとかを出していこうっていうのは、どれぐらい前から始められたんですか?

 

はりー  短歌を、二年くらい前から書いているんですけど、それから結構絵を載せるようになって。「短歌とさし絵」っていうのをやっているんですけれども。短歌を書いて、自分でさし絵をつけて。短歌だけでも分からないし、さし絵だけでもちょっと分からない。相互作用みたいなものをやりたいなあと思って投稿しています。

 

秋山  やっぱり、活動のベースはTwitterですか? webページも持ってらっしゃるし、Tumblrもやっていますよね。

 

はりー  そうですね。私は、「mon・you・moyo」(もんようもよう)というオリジナルのテキスタイルブランドをこの前からやっていて、スカーフとか、短歌のハンカチーフ「タンカチーフ」っていうものを作ったりしているんですけれど。

「mon」がフランス語で「私の」という意味、「you」は英語で「あなた」、「moyo」がスワヒリ語で「魂」っていう意味があるんですが、「わたしのあなた、そのたましい」という名前のブランドです。

女の子に、好きな人を身も心も手に入れてほしい、というという気持ちで作っているブランドなんですけれども、すごく強い、デモニッシュな魅力がある女の子が、強いんだけど、淋しくなって涙を流す時に、その涙を拭かせてほしいというつもりでやっているブランドです。

その「女の子」というのが、私がTwitterで見ている人を対象にしていることが多くって。

 

秋山  あ、そうなんですね。

 

はりー  そうですね。いろんな人の人生をちらっと見られるじゃないですか、Twitterって。

フォローしている人が462人いるんですけれど、その人たちのつぶやきを見せてもらって、こんなことがあって辛いんだなあとか、こんなことがあって嬉しいんだなあとかいうのを対象にしているので、Twitterがメインですね。

 

秋山  それが面白いなあと思うんです。企業でのものづくりは、言ってみたら「乾いている」というか、「これこれこういう製品を10万個売りたい。市場にはこういうターゲットがいるだろうから、そこに対して、こんな製品を企画しました」ということをするんですが、お二人とも、それを自分の身の回りでやっているなと感じるんですね。それが自分の身の回りを超えて、すごくいろんな人達に受けているっていう。はりーさんなんか、去年フォローした時にはフォロワーが6千人ぐらいだったと思うんですけど、今や1万人くらいになっててなんだこれ! とか思うんですけど。それこそご自分でおっしゃってましたが、「デモニッシュ(悪魔的な)」っていう、わけのわからない魅力みたいなものを感じるんですよね。口で説明できないもの。

 

デザインとかやってると、「自分のデザインはこういうお客さんに受けるはずの、こんなデザインですよ」ということを説明できるものが良しとされるんですけど、それだけではない、もっと個人的な衝動だったりとかもっとウェットなもの。お二人とお話していたり、自分を顧みても思うんですが、自分の作っているものにどんどん自分が出てきてしまう。で、実際話していると、「こういう原因があって、作ったものはこうなってるんだな」ということがわかってしまうんですよね。それが、めちゃくちゃ面白いなというところなんです。

 

秋山  はりーさんは文章も書いてらっしゃるんですよね。「アパートメント」。

 

はりー  そうですね。いまアパートメントというwebマガジンで、連載を2ヶ月間やらせてもらっていまして。デモニッシュな女の子、日本の民話に登場する、「日本のヤバい女の子」をテーマに、全9回連載させてもらっています。

テーマはなんでもいいよと言われたので、今わたしがモチーフにしているものを改めて説明するいい機会だなと思って、やらせてもらっています。

 

秋山  すごく一貫していますよね。女の子のためにやるっていう。「日本のヤバい女の子」っていうテーマ自体からしてヤバいと思うんですけど。(笑)自分のテーマ選びっていうんじゃないんですが、「何でそうなったか」っていう…。

 

パーソナルからソーシャルへ

 

はりー  多分、いろんな方が経験があると思うんですけど、恋とかクリエイティブっていう分野で、生きてるうちに挫折することがあると思うんですね。挫折した時に、次の人に願いを託すじゃないんですけど…。自分以外の女の子に、強く生きて成功してほしいなあ、っていう。ものをバトンタッチするような意味で、「強い女の子」をテーマにしているのかなあと思います。

 

秋山  そう、それが、むっちゃかっこいいなと思ったんですよね。ある意味で、恐らくはりーさん自身の理想みたいなものも反映されているし、しかもそれが人に伝わっているっていうところがまじリスペクトというところなんですけど。

お二人とも面白いんですよね。Twitterのタイムラインも読み物として読めるし、出ているイラストレーションであったりとか成果物もすごくかわいいし。

これは僕があやかりたいなと思って聞いてみたいことなんですが、「自分の思い」、それこそ挫折したとか、自分の中にあるものっていうのは、本当に個人的じゃないですか。自分ひとりだけのパーソナルなものが、ガッと垣根を超えて誰かにも伝わるものになった、壁を乗り越えた瞬間っていうのは、恐らくお二人にはあったと思うんですよね。hima://さんで言ったら、「MEMEOがバズった」みたいな。そのときのことって覚えてらっしゃいますか?

 

はりー  私はTwitterをメインに活動しているので、総合的にやりとりをするっていうのが一番通じる瞬間だと思うんですけど。なんだろう…(笑)。

 

秋山  (笑)でもやっぱり、自分の知っている人に向けてやっているものなんですよね?

 

はりー  知り合いにだけ向けているっていうわけじゃなくて、例えばなにか絵とか、こういうものを販売しますっていう情報をアップした時に、Favられたりとか、欲しいですって言ってもらったりしたときに、一番「あ、今、見てくれている人と相互作用が起きているのかなあ」って思うんですよね。あとは、あまり分からないです。

 

秋山  hima://さんは、さっきもちょっとお話いただきましたけど、MEMEOがバズったっていうときは、気持ち的には「ヤバい」みたいな?

 

hima://  絵しか描いちゃいけないという固定概念があったっていうことにまずは気づいたのと、それから可能性を感じましたね。自分ができることに制限がないっていうことがわかったので。「性的殺意」っていうブランドは、ちょっと物騒な名前なんですけど、中身はそんなに過激なことをしているブランドでもなくて。

正直、「インターネットは最高」というタイトルではあるんですが、Twitterのメンヘラ文化は大っ嫌いなんで。そういうのにだけは乗っかりたくなくて。

「性的殺意」っていうタイトルだけあれば、あとは何をしてもいいと思っているんですよ。ブランド名とコンセプトは、ものを見てもわからない。でも買った人は、どういう気持ちでこれを作ったかとか、どういう気持ちの時に自分がこれを買ったかとか、わかっているわけじゃないですか。私のTwitterを見てもらえばわかると思うんですけど、性的殺意の意味が…

 

秋山  これですね。最近はこんなステッカーとか、蝶ネクタイとかも作ってるんですね。

 

hima://  蝶ネクタイ、出すんです。今度の個展で。実物の蝶をモチーフにしたものを出します。

 

秋山  なんていうか、それこそ物騒な名前ですよね。最初に見た時に、僕も「ヤバい」と思ってひるんだんですけど、実際に作っているものを見てみると、すごく洗練されているというか。

 

hima://  基本的には「素材」が好きなんです。紙、印刷、それにまつわる技法も好きで。「ものをつくる」ということにおいて、内容とかメッセージ性とかには意味がないと思っているので、だから純粋にプロダクトを楽しんでいるというか。

それで、性的殺意のコンセプトは、「誰にも言えないそんな気持ちがあるならば、こっそりと、ブックカバーの裏側に隠せばいい。そして堂々と、電車の中で読めばいい。そうとも知らない連中に、自分の『性的殺意』がバレないように。」というものです。まず、「性的殺意」という衝動がわかってもらってることを前提にしているんですけど… 女性でも、男性でも、私は共感してもらえると思ってるんですが、そういう「殺したいくらい好き」みたいな、衝動的な気持ち…。でも、いろんなときにこういうのってあって。

 

バンドやってたんですよ。ギター弾いて、男とか女とかじゃない時にもそういう衝動はあったし。そういうのって、人に向けるとすごい嫌がられるじゃないですか。傷つけるし。でも、そういう自分の気持を、ものに転化する。ものにその人だけの意味を持たせる「余白」を持たせたいなと思って。私の「性的殺意」というブランドは、さっきの話のブックカバーであって、堂々と、そこに自分で意味を見つけて読んでほしいっていう。

コンセプトがあるから、自由にプロダクトできるんで。楽というか…私の気持ちのはけ口でもあり、人の気持ちの器にもなりたいみたいな。

 

秋山  hima://さんはイラストも描かれてますが、イラストレーションでも、自分のものにコンセプトを作って発表していくっていうのも不可能ではないわけじゃないですか。僕の場合は、学校で工業デザインの勉強をして、そのまま会社員になってものづくりをやってるところなんですけど、イラストレーションとか平面的なところから、「もの」を作ろうというきっかけは何だったのでしょうか?

 

hima://  絵は、もう絶対に誰からも侵略されたくなかったんです。誰からも、の気持ちに対しての余白を感じさせない方的なものでありたいと思ったし、「わかりやすくしてくれ」とか、それに注文をつけられるのも嫌だったんで…

でも、私はとにかくその「一方的さ」が嫌になったのがきっかけです。

 

秋山  「もの」っていうのは、さっきもおっしゃっていたようにある程度余白がある、相手に使ってもらうものじゃないですか。身につけるとか…。それが良かったんでしょうか。

 

hima://  絵はRGBが一番綺麗なんですよ。既にRGBで完成されてるんで、ある意味インターネット上で見るのが一番綺麗なんです。だけど「もの」は違うし…。

インターネットでものを作れるようになったというのは、インフラが完璧になったからだと思ってて。インターネットが誰でも使えるというのは、ある意味インターネットが「ない」のと同じなんですね。

 

インターネットは最高なんかじゃない

 

秋山  インターネットが使える人が使えない人より優位に立っているということではなく、全員が当たり前に使える状態。

 

hima://  そうです。だから、インターネットがあることが当たり前になればなるほど、「その場」に行くことの意味が増しているというか、価値が上がっていると私は考えていて。なので、インターネットの恩恵を受けている上で、ここに来たというか。(笑)

 

秋山  ありがとうございます。(笑)

 

hima://  現場主義に、逆になりました。「もの」はやっぱり触らなきゃ分からないし…。

 

秋山  あっ、すごい!今の一言でいきなりテンション上がっちゃったんですけど…(笑)

 

hima://  やったあ(笑)はりーさんはどうなんですか?

 

秋山  はりーさんも、テキストとイラストでもう充分魅力的なのに、手に取れる「もの」にしたのは何でなんだ?っていう。

 

はりー  私は多分、hima://さんと全然真逆であって、ある意味では完全に一緒なんですけど。「インターネットは最高」とは言っているけど、やっぱりあまり…あまりというか、全く信用していない。インターネットで発信している私の絵に、金銭的価値は一切ないと思っていて。金銭的価値というか、大事にする価値が全くない。例えば、よくインターネットで起こる問題として、絵を勝手にアイコンに使われたり、転載されたり…というのがあるじゃないですか。語弊があるかもしれないですが、ああいうのにあまり問題を感じていなくて、使ってもらうことに抵抗がないし、それで損害を受けるという感覚がない。なぜかというと、それを「もの」としてやりとりするつもりが全然なくて、普通に喋ってるのと同じ。

秋山  絵自体がTwitterでいうところの「つぶやき」と同じ。

 

はりー  そうですね、文字も、絵も。だからテキストレーターという肩書きを考えたんですけど。テキストも、イラストレーションも、テキスタイルも、一緒というか。最終的に「もの」にたどり着きたいとという気持ちがあるから、web上の自分の絵とかテキストにあまり価値がないと思っているんです。手もとに自分の作った「もの」を持っておいてもらうというのが一番価値があるんじゃないかな、と。例えばこの(Instagramで加工してTwitterにpostした)写真を撮るのと、短歌を書いてさし絵を描くのとでは全然労力が違うんですけど、出来上がったアウトプットの価値は同じだと思っています。「もの」を届けるということは、「もの」を買って頂かないといけないのですが、「もの」を買ってもらって手もとに置いておいてもらうというのが、すごく嬉しくて。

 

秋山  存在として強いですよね。

 

はりー  はい。…というのも、死ぬのがめっちゃ怖いんですよ。死ぬのが凄く怖くて、「死ぬのなんて怖くないよ」という人がたまにいるじゃないですか。そういう人に考え方を教えてもらったりもするんですけど、何回話を聞いてもやっぱり怖くて。絶対に死にたくないし、誰よりも長生きしたい。それがなぜなのか考えたときに、私が「いた」ということがなくなるのが怖いのかも、と思って。

折角こうしてお話したり、Twitterで色んな人と知り合いになったりして得たインスピレーションや認識がなくなるのが怖い。作った「もの」を手もとに置いておいて貰ったら、その人のところに分身が残るというのが凄くありがたいと思います…重いんですけど。(笑)買ってくださった方はそんな重い気持ちじゃないかもしれないですが…。あっ、死んだらWikipediaに載りたいです。

 

秋山  自分の生きた証拠を残すために。

 

はりー  その究極の形が「買ってくれた方の頭の中のWikipediaに載る」みたいな。

 

秋山  Wikipediaで検索したら「はりー」って出てくるのではなく?

 

はりー  それも是非そうなりたいです。(笑)なので、インターネットは手もとに私の存在を残してくれる人と出会うツールだと思っています。

 

秋山  これすごく羨ましいと思うんですが、Twitterにはりーさんからものを買った人のコメントが載っています。

 

「はりーさんこんばんは。購入した絵が無事に届きました。今この絵を飾るために一生懸命部屋を掃除しています。この絵が似合う部屋になるよう頑張ります」

…というような。これ、すごく良いなと思うんですよね。僕はこの前炊飯器を作って出したんですが、メーカーで仕事をしていたらこんな良いコメントを直接は貰えないですよ。両者の性質が違うので比べられないですが。でもはりーさんがものを買っている人はコミュニケーション込みで買っているし、hima://さんがさっきおっしゃった「現場主義」にも通じると思うんですが、一瞬で消えていくインターネット上の発信から精製したエッセンスを手もとに届けてもらうというのはすごく良いことだなと…。インターネットっぽい言葉づかいで言うと、良さの強さがある。…良さって言いますよね?(笑)

 

はりー  良さって言いますね(笑)

 

秋山  「現場主義」と言えば、東京のネットレーベル「マルチネレコーズ」というのがあります。元々は自分たちのベッドルームで作った音楽をインターネットで発信するというのをやっていたんだけど、インターネットを飛び出してクラブでイベントを企画しよう、やはりリアルが楽しい!という。僕たち以上の世代の人って、リアルでやっている物事をプロモーションするためにインターネットを使うというイメージなのですが、それより若い世代の人は初めからインターネットで活動していて、それが面白くなってきたからリアルでもやろう!と、逆になっているんですよね。そのちょうど端境期が僕らの年代なのかなと思っています

バーチャルな世界で写真とかテキストでやりとりしているものと、実際に壁があって床がある世界の捉え方が世代の上下によって全然違いますね。それも面白い。インターネットから入ってリアルに落とし込むというのは、どうしてそうなったんだろう。

僕は割と旧世代的な考え方なので、先に自分で作ったものがあってそれをアピールする手段がインターネットだった。インターネットなら展示をするよりたくさんの人に見てもらえるし、良いなと。でもインターネットの知り合いが増えてくると、どうも逆らしいぞ?というのが分かってきた。インターネット発→リアルへ、というのが今っぽいんですかねえ。

 

hima://  今っぽすぎますよ。逆に…体感として、10代後半から20代半ばくらいだとそれが主流すぎて私はちょっと辟易してる。

 

秋山  陳腐化してきちゃってる?

 

hima://  私は静岡出身で2010年に上京してきたんですけど、それまでは静岡でずっと活動してました。活動したい、発表したい欲求がずっとあって、12歳からイベントに出始めて、やりたがりというか、家が窮屈だったのもあって、13歳からHTMLを組み始めた。とにかく外へ外へ!という感じで。その時の、2000年ちょっとくらいのインターネットって、今より特別じゃないですか。(笑)会えないと人とか周りにいない人と会うためのツールだった。それと、自分のいる場所…当時自分と同じ志の人が周りにいなかったけど、自分でWebサイトを作れば年齢関係なく人が集まってくるホームが持てる。

全部、外に出るための一旦集合場所だったんです。インターネットで一旦集合して、東京行って、コミケ出て。私にとってインターネットはずっと中継場所です。インターネットも人の集合場所なので、結局はリアルです。インターネットで出来ることで面白いこともあるけど、本当に面白いことをしようとすると何だかんだ言って「集まろう!」ってなりますもん。

 

秋山  僕も二人にラブコールを送らせて貰って、Skypeとかで打ち合わせはしてたけど、実際に会ってみると面白さが全然違ってました。今朝もhima://さんが朝の7時に高速バスで梅田に着いてからずっと三人で喋り続けてました。(笑)やはり実際に相見えて話すというのは全然違いますね。体験が強い。

 

インターネットが変えたもの

 

インターネット発→リアル行きの、その先というのは何か感じますか?その先には何があるんだろう。よく「インターネットが物事を変えた!」と言われますよね。流通とか、人のコミュニケーションの形とか。それはまさしくその通りだと思うけど、世界の見た目が変わった訳ではない。

車が浮かんで走る訳でも、1970年代に思い浮かべられていたように、銀色のぴったりした服を皆が着ている訳でもないし。世界の姿はそのままだけど、インターネットという見えない膜が世界を覆っちゃったことで、世界の質が変わった。この薄い膜はインターネットに限らず、例えば僕と、hima://さんと、はりーさんでは同じ部屋にいても見てる層が全然違う。たくさんあるレイヤーの一つがインターネットで、そこには共振して増幅していく力がある。自分のpostに対して皆がいいね!いいね!と言ってくれる時もあるし、だめ!だめ!と炎上する時もあるし、その力はすごいなと思います。

 

話は変わりますが、僕が二年前に一緒に展示をした「あけたらしろめ」というイラストレーターがいます。インターネットの作法とか、コミュニケーションの仕方を僕は彼から教わりました。(笑)彼は人当たりが良くて、喋りも上手くて、いいヤツなんです。その皆に好かれる力をインターネットに持ち込んでる。

昨日彼が面白いことをしていたんですが、「僕の絵をiPhoneの壁紙にしている人は僕に送ってください」と発信したら皆が「してるよ!」と言って送ってきてくれて。彼はこういうコミュニケーションをインターネット/リアル問わず、ごく自然にやってるんです。僕は大学生の頃から人との距離の取り方があまり得意じゃなかったけど、こんな風に自分の作ったものを「いいね!」と言ってくれる人がいるのが、すごく救いになるし「やるぞ!」という気持ちになる救済装置に思えます。彼にもインターネットにも助けてもらった。僕はインターネットに入ったのが最近なので、その優しい部分しかまだ見えてないと思いますが。

 

ものやイラストを見せて、「いいね!」と言われるだけではなく、言葉としてやり取りするのが通貨みたいだなと思います。インターネットは自分と好きなものの傾向が似ている人に会いやすい。お二人は、インターネットで今までにない人に会えて嬉しかったことはありますか?

 

はりー  逆に、現実の知り合いにすごく嫌われるようになったのですが…。(笑)

 

秋山  逆に!?(笑)

 

はりー  私が絵を教えてもらっていた先生に久しぶりにお会いしたら、私のことをすごく嫌いになっていて、「お前の短歌は好かん!」みたいな。(笑)その時、「あっ、ああー!そんなこともあるのか!」と思って。

 

秋山  なぜですか!?

 

はりー  多分、インターネットでたくさんのものを日常的に出すからでしょうか。インターネットで公開する絵と、現実世界で展示する絵のレベルの差って、よくテーマになると思うんですけど…平たく言うと、「インターネットで公開している絵の方が現実世界で公開されている絵よりショボい」というような。インターネットでちやほやされたいからショボい絵を公開するんでしょう、という悪意、意見を目にする機会ってありますよね。そういう感覚の違いって浮き彫りになりやすい。

それと、その時に「私の絵をそんなに見てくれてたんだ…」と驚きました。(笑)

 

秋山  そうですね、そこまで嫌いになるには相当見ないと。(笑)

 

はりー  その方は少し上の世代の方なんですけど、インターネットとクリエイティブの関係の捉え方は、世代によって全然違う。

 

秋山  上の世代の人たちは、クオリティの高い絵を無言でインターネットに公開して拡散されるというのを許してくれるんでしょうか。

 

はりー  さっきhima://さんと「決め打ちで行くとスベる」という話をしていたのですが、自分の中ですごく良いと思って投稿してもあまり反応がないことってよくありますよね。見てくれている人と相互的な作用があると思うんですけど。

 

秋山  会話するような感じ。

 

はりー  はい。インターネットに投稿したものに対する反応を、インターネットではなくオフラインで貰ったことに驚きを感じました。

 

秋山  でもそんなに好きとか嫌いとか言われることってあまりないですよね。

 

はりー  関係性がそんなに密でない人から、Web上のものを通してこんなに嫌われることがあるのだなと思いました。人によって発信の仕方と、その捉え方が違うのだなということにいちばんびっくりしました。

 

秋山  何が「価値」なのかが世代によって異なるんでしょうね。画面として強い絵を出すのが良いとか、コミュニケーションを重視するのが良いとか。例えばはりーさんとかhima://さんの周囲は、語弊があるかもしれないけどアイドルとファンの関係に近いように思います。はりーさんとかhima://さんのやっていることを評価して支持するという意思表明のためにものを買っている感覚がありそう。それこそが真髄、みたいな。どうなんでしょう。

 

サブカル的/マス的

 

hima://  それに関してはちょっと微妙なので置いておいて(笑)

インターネットで会ってびっくりした人と言えば、私は秋山さんの考え方にめっちゃびっくりしてます。私はずっと絵を描いて、SNSがない頃からひとりで発表してきて、その後SNSができた。pixivができた頃は、正直こんな、Webサイトも持たないでインスタントなやり方でどうなのと思いました。それでもその中にどんどん紛れて絵を発表して、同時にtwitterなどもやっていく絵描きがたくさんいた。作品発表ありきで、簡単に自分の承認欲求を満たす人たちが多いというのは当たり前で、ものをストイックに作って、制作過程やなんかも…。

 

私は企画するのが好きで絵を描いてるということに途中で気づきました。イベントに出て絵を描いていたのも、イベントに出たいから描いてたんだ!と。

それで、あ、デザインをやりたいんだな、と思った。自分の絵を良く見せるためにデザインの勉強をした訳なんですけど。極端に言うと、本当は無機質でカッコいいデザイナーになりたかった。そういう人に憧れて、吉岡徳仁さんなどプロダクトデザイナーの方が好きで、グラフィックデザインも自己主張というより美しさを重視する方が好きで。なので秋山さんみたいに「ものとして美しいものを作る」というよりは、私の今やっているマーケティングは製作過程をちょくちょく見せて、それ込みで楽しんで頂いていると思っているので、その反応を見て量を決めたり盛り上げていったりしている。

 

そうではなく、きちんと企画してきれいなものを作って、それを発表するということは私はカッコいいと思っています。インターネットの中でそれをやる人は少ないんですよ。インスタント的なことをしてる人ばかりいるから、逆にきちんとする枠が空いているんですけど。ちょっと頑張ってものを作って、ちゃんとブランディングする人が余りにも少ないから、私は若干注目して頂いている…でもそのフィールドで張り合う相手も実は少なくて…というような。なので、秋山さんが憧れる理由が分からないんです。(笑)

 

秋山  そりゃあ憧れますよ。だって、皆に言葉をかけてもらえるなんて良いじゃないですか。

 

hima://  でも、秋山さんが作ったものに比べるとすごく少ないですよ。極論ですが、秋山さんの作ったものはヨドバシカメラとかで、私やはりーさんのフォロワーよりたくさんの人に見てもらってるはずです。インターネットをやりすぎたからだと思うけど、私、マスにすごく憧れるんですよ。インフラとして確立されているから…今、皆サブカルサブカルって言うのが本当にアホらしく感じてしまって。サブカルチャーが陳腐になっていくほど、メインカルチャーというよりマスの重要性が高まってくる。どうせマスぶったってマスになれないんだったら、サブカルの中でデザインとしてコンセプトがちゃんとしているものをやるというのは、逆に目立ちますよね。

 

秋山  そんなことを考えていたとは…。(笑)

 

hima://  考えてるんですよ!(笑)

 

秋山  僕はやっぱり逆なんですよね。

会社の仕事というのは、コストがあって、生産個数があって、その中で「自分が」というよりは社内の人やユーザーが満足するものを作っていくわけじゃないですか。そういうところでもやもやしてる人って、今日本にいっぱいいると思うんです。メーカーの元気もなくなってきちゃったし。その一方で周りにはたと目を向けてみると、コミケにめちゃくちゃ人が来てたりして、「何か楽しそう…」と思っちゃうんんですよね。だから、お互い隣の芝生は青い、みたいな感じですね。(笑)

 

hima://  私もデザイン事務所にいて、たくさんの人に向けてものを作っていた時期もありました。それが世に出るのも嬉しかったんですけど、そういうのをどっちも経験してから、より健全でいられる方法を取れるといいですね。デザインぶりながら…というか、インターネットにいないふりをしながらめっちゃネットにいる、みたいな。

 

秋山  確かにもののクオリティとか、姿勢とかを見ていると、hima://さんの作るものは、一般のお店で展開されていそうでもあるし、hima://さんが自分のお店を持っててもおかしくないですよね。でもネットにいる。

 

hima://  今、渋谷PARCOさんで実店舗での取り扱いをしてもらってるんです。でも、インターネットの中にいるのに、インターネットの中でどこか手が届かない、実際には小さい扱いを受けているけど、ネットにさでもリアルでも手の届かないところにいると、人間関係では困らないですよ。どっちにもアクセスできる。まあ、誰からも呼ばれないこともあるので自分から行動するしかないんですけど。(笑)

 

秋山  僕も、遊ぼうよ、とかこういう企画しようよ、とか、全部自分からです。(笑)ご迷惑かな?と、メールの送信ボタンを押す指が震えます。

 

hima://  私はこういう人が増えればいいなと思います。めちゃくちゃ面白いから。お店も作りたい。

 

秋山  そう、めっちゃ面白いですよね。そういうわけの分からないお店がもっと増えればいいなと思います。(笑)

今、ものを買う手段ってすごく限定的で、特に家電製品なんてバリエーションがあるようでない。作るハードルが高いという理由もありますが。「美味しいごはんが炊ける、クオリティの高い炊飯器」というのはあるけど、個人の衝動に任せて作った「怒りの炊飯器」とかはないし、作れない。でも、そういうのがもっと出てきたら、もっともっと楽しい世界になるんじゃないかなと思うんですよ。

 

今日本のメーカーがあまり良くない状況になっているのは、インターネットが当たり前のものになったのと似ています。

何もないところに突然洗濯機とか炊飯器が来たら、ヤバい価値ですよね。今まで手でゴシゴシやってたのをボタン一つでやってくれるようになって、マジ便利!最高!という瞬間があった。それが当たり前になっちゃって、その先が、見えない。見えないのに足掻いていて、「Appleになりたい」と言っても上手くいかない。だから、個人商店的にやっていける人がもっと増えて、面白い、変なものが世の中にあふれたらいいな、と思います。

僕も実際に動くものを作りたいし、今展示室に置いてある作品で、本当に音が出るラジオがあります。このつやっとした石みたいな展示物もピンを刺すと音が聞こえるんです。物作りは金型で作るだけじゃなくて、色々あるんだぜ、というのを自分が一番分かりたいし、自分の周りにいる人にもそういうものを作ってほしいというのは変な言い方ですが…皆で作りたい。今日はそういうことをしている人に話を聞きたいな、と思って企画しました。もう、もやもやし通しです。(笑)

 

hima://  もやもやしてる方がいいですよ。(笑)皆、絵ばっかり描けばいいんですよ。そういう人たちはそこで完結してる。さっきも言ったように、RGBの絵はRGBが一番きれいなんですよ。逆にRGBで描いた絵をコミティアとかでCMYKの冊子として出したものが一番気分が悪くなる。(※2017年のhima://さん注:これは当時の考え方です 今はRGBの絵もCMYKで量産しないと需要に対して不義理だと気づきました…まだまだ修行中)

 

秋山  (画面を指して)例えば、こういうスカッとした青なんかはインクで出にくいですか。

 

hima://  やるとしたら、インクを作ってもらってやるしかない。絵描きがRGBでやっているのを別に引っ張ってこようとは思わない、思わないけど、インターネットがインフラとして完璧になって、「インターネットは最高」というのはつまり「道路最高」「水道最高」みたいなものですよね。実際に道路も水道も、最高なんです。そこから敢えてより不便なところへ行こうとしてるんですよね。ちょっと道はずれてみようぜ、みたいな。それがもやもやの原因だと思うけど、まあ、もやもやしてればいいんじゃないですか。

 

秋山  ここにちゃんとした道路があるんだけど、もしかして藪の中に道があるんじゃないかと思っちゃいますね。ちょっとでもいいから新しい道を見つけたい。

 

hima://  まあ、けもの道に人が出入りするようになったらきっとまた飽きると思うんですけど。(笑)

 

秋山  はりーさんも、会社でテキスタイルの仕事をやりつつ自分の創作活動もしている二重生活という点で僕と同じだと思うんですけど、その両立でもやもやすることはありますか?

 

はりー  急に社畜みたいなことを言いますが、会社組織に属しているということは、その組織の社長の下で働いていますよね。それは社長の始めた夢に乗っかってるだけです。で、家に帰って自分のブランド「mon・you・moyo」のものを作るときは、今度は私がその立場になる。

 

秋山  その活動でいけそうだと思ったら、仕事の全てをそっちに切り替えるつもりはありますか?

 

はりー  もちろん、自分のやりたいことを自分が先頭をきってやるのは目標です。会社員をしながら自分の制作をするのは、1日に2回、視点…視座が、上下に移動するということです。人の夢を分解して仕事をする立場と、自分の理念に基づいて仕事をする立場と。だから、面白いですよね。帰ってきたら疲れて寝ちゃったりしますけど。(笑)

 

秋山  会社がお金をくれるというのはすごいことですよね。僕はくれなかったら生活していけないです。だから、独立してやっている人に対してものすごく憧れと嫉妬がある。でも、会社で仕事をするのも悪いことじゃないですよね。

 

はりー  私は、「人の夢に乗っかってお金をもらう」という構造がすごいことだと思います。

 

秋山  フリーはどの辺が大変ですか?

 

hima://  さっきはりーさんが言ったように、自分が雇われている立場だと、視点の上下で自分がどこに置かれているか分かるんですよね。人に求められていることも、人に求めたいことも、やりたいことを人に任せる大切さも、任せられることのつらさも分かる。でも一人になるとひとつの視点でしか見られないので、どんなに楽しかったことも「仕事」になるんです。仕事としてやらないといけない。

でも、面白いものを作らないと食べていけないので、面白いことをするのも「仕事」なんですけど、ずっと家で作業していると、「仕事しなきゃ」という意識になってしまう。全部楽しかったことのはずなのに、「仕事しなきゃ」になっちゃうのがつらいです。贅沢なことだと言われるかもしれないけど、これはフリーの人ならどんな方でも絶対にあるジレンマだと思う。

 

それと、もの作り以外のことがすごく多い。お金のこと、営業のこと…1日の中で本当にものを作れているのは2割くらいかもしれないです。例えば通販の住所管理、入金管理とか。確かに「好きなことなんだから」と言われるかもしれないけど、自分が楽しむことも仕事だと思うと、変わってきます。でも、逆に全て遊びでもあるとも言える。視点を変えるのは結構大事で、週に2回くらい会社にいた時は、会社の仕事でフラストレーションが溜まる分、むしろ捗りました。でも今はもうフリーしかできないなとは思います。これからちゃんとしていきたい…。確定申告とかつらいです。でもとにかく考えたくない…。

 

秋山  フリーランスならではの良いところもあるんでしょうか。全部遊び、ということとか。

 

hima://  全部遊びです。これはデザインの先輩に言われたんですけど、「全部遊びだよ」と。実際、会社にいても全部遊びだし、何してても遊びだと思います。考え方ですかね。

 

ものに込める祈り

 

秋山  最後に一つ聞きたいことがあります。プロダクトデザインの人たちは自分の能力やスキルは個性として打ち出していくけど、その時の自分の気持ちとか衝動をものにぶつけるということをあまりしない。さっき言ったみたいに「怒りの炊飯器」とか、「触るだけで傷つくスマートフォン」とかもない。でも、インターネット上でものを作っている人たちはそもそもそういうやり方でものを使っていない。自分がその時に置かれている状況とか、心理を反映していたり、あるいは自分自身がそのままものにトレースされたようなものをたくさん見かけます。

はりーさんが今首に巻いているスカーフも、相当「ヤバい」ものだし、僕がここで展示しているラジオとかも、人間関係がうまくいっていない時に「ああ!どうしよう!」という気持ちで作っていたら気持ち悪い見た目になった。お二人は、自分自身がそのままものに投影されているというのは、狙ってやっていることなんでしょうか?それともそうなっちゃっている、のでしょうか。

 

はりー  ではまず、このスカーフについて説明させて下さい。これは私の作ったブランド「mon・you・moyo」のスカーフです。発売したのは別のところからなんですけど。さっきも少し触れましたが、「私のあなた、そのたましい」というコンセプトのテキスタイルブランドです。これはウェブマガジン「アパートメント」で連載させてもらっているテーマとも共通するのですが、日本の民話を登場する女の子をモチーフにしています。その中でも、このスカーフは、和歌山県の「道成寺」という民話の安珍清姫伝説からインスピレーションを得ています。

ざっくり説明すると、めっちゃイケメンでチャラ男のお坊さん安珍が、旅の途中で清姫ちゃんという女の子をちょろまかすんですよ。

清姫ちゃんというのは、安珍が熊野詣に行く途中に宿を借りた家の娘です。その子を安珍はチャラチャラちょろまかしたと。清姫ちゃんは恋をして「結婚してほしい」と言うのですが、イケメン安珍は「今ちょっと修行の身だから、熊野詣がおわったら迎えに来るからね」と言って帰りは全然違う道を通って帰りやがるんですよ。プレイボーイだから、まだ一人に縛られたくないとか言って。

それを知った清姫ちゃんはマジでキレて追いかける。途中、日高川という大きな川が行く手を塞ぐのですが、蛇に変身して渡っちゃう。船で逃げていたイケメン安珍はびっくりして、道成寺という寺に逃げ込んで鉄の鐘の中に匿ってもらう。そこへ蛇が追いついて、鐘ごと焼き殺すんです。

 

秋山  オチがすごいですね。

 

はりー  すごいですよね。でもそれが、すごく気持ちの良い話だなと思って。(笑)

 

秋山  男から見るとたまらない話です。

 

はりー  そうですね、絶対に焼き殺されたくないですよね。一般的に女性という存在は、待たされたり虐げられたりすることが歴史上多かったと思うのですが、民話の中で「好きなように」している女の子がすごく気持ち良いなと思いました。欲しかったら欲しいし、ムカついたら追いかけるし、殺したかったら殺すし、好きなようにしているのがすごく良い。このスカーフは蛇に見立てた女の子の髪がにょろにょろのびていて、そこに白米が絡まっていたりとかしています。

 

秋山  白米…お米ですね。

 

はりー  お米です。炭水化物。(笑)あとは高い時計とか、高い靴とか。それとしょうもない男の子も絡まっています。(笑)

 

秋山  これ、イラスト全体をウェブで見たことがあるんですけど、しょうもない男の描かれ方がほんとにしょうもないんですよね。(笑)こりゃ駄目な男だな、と思って笑ってしまいました。

 

はりー  (笑) それと、この角のところに、能の演目で清姫が蛇に変身したことを示すために着る鱗紋の着物があるのですが、そのモチーフが入っています。「欲しいものを絶対に手に入れてほしい」という思いを込めて作りました。

それと、あとは短歌とさし絵というセットをウェブにアップしているんですけど、そもそもこういったものを作りはじめたきっかけは、さっきも言ったのですが、誰でも経験があるであろう恋やクリエイティブに対する挫折から生まれています。そういうものに対する「当てつけ」で作り始めたというか。恋に破れた相手に対する当てつけであるとか、自分が失敗したことをうまくやっている相手に対する当てつけであるとか、うらみつらみを込めて。

 

秋山  だから、見てると念が伝わってきてヤバいんですよね。その呪いのようなものがポジティブなタッチで描かれているのが強い。

 

はりー  それらをpostしたり、販売したりしている時に、共感や反応してくれる人がいてくれて、(ああ、同じようなことを思っている人が意外といるんだな)と思って。

 

秋山  その話を聞いて、スカーフを改めて見ると、すごく腑に落ちる感覚があります。また、この前僕のポートフォリオをはりーさんに見てもらう機会があったんですけど、その作品を作っているときに僕はちょうど失恋していたんです。それらを「これは傷つくことを知らない無邪気な頃の作品」「これは恋人とうまくいかなくなってきてヤバい頃の作品」「これは一番最後にだめになってしまってすごくさびしい頃の作品」と説明したら、「まるっきりそうですね、どこからどう見てもバレバレですよ」と言われて。そういうのって出ちゃうものなんですね。(笑)

 

はりー  悲しい感じとか、まだ傷つくことを知らないピュアな感じとか、すごく表れてましたもんね。(笑)そういう何かがないと作れないのかなと思います。傷を舐めるというか、やり場のない当てつけというか。そういう感じです。

 

秋山  hima://さんはドライになりたいとずっと仰ってましたが、やはり出てるものってありますよね。それは意図せず出ているんですか?

 

hima://  出ないように頑張っているけど、絵の方は完全にもう、ウェットです。絵を絶対にものに使わないというのが私の中の決まりで、イラストのプリントTシャツとかを基本的に作りたくない。

出せば喜んでくれる人もいるでしょうけど、それを絶対にやりたくないのは、私の感情が前面に出てるからで、私の衝動、腹が立つこと、ムカつくこと、苦しんだことは絵だけでいいです。それは誰にも邪魔されたくない。その成分だけを抽出して「性的殺意」ができているというか。イラストをイラストじゃないものに噛み砕いて、感情が見た目でダイレクトに入ってこないように、それを「性的殺意」というフィルターで濾す。「性的殺意」という単語が絵を濾したフィルターでキャッチしてくれるから、汚いところはあんまり見えないようになっています。きれいな汁だけ。(笑)普通にカッコいいものを作ろう、っていう。

 

ものに、考える隙を与えるというか。女の子でも男の子でも、救いになってほしいんです。でも救いはこっちから押し付けるものじゃなくて、私のものづくりは…。

最近私も失恋したんですけど(注:その後復縁したそうです)、その人と付き合い始めた16歳くらいの頃、幸せになっちゃったら絵が描けなくなるんじゃないかと不安になったことがあって。そう言ったら、相手はすごく純粋な人だったんですけど、「君は今まで不安に頼りすぎてたんじゃないか」と言われてハッとしました。それまでの自分のつらかったことはパッケージして、自分の中の感情はモチーフとして置いておいて、そこからまた別のものを描こうと思った。そういうのを10年やって、今はまたインプットの時期に入ってしまったんですけど。

 

つらい思いをすることでしか絵が描けないというのは、私の中で「いけないこと」になっていて。コンセプトがしっかりして、どんなにつらくても、楽しくても、笑っていても芯が通ったものを描きたい。ものは私の押し付けじゃなくて、つらい思いを抱えている人が「何のためにそれを買うのか?」を問いたい。

(写真を指して)これは羽根の片翼バージョンのピンなんですけど、私のものをつけてくれる人が何のためにこれをつけるのか考えてtweetしてくれる、それを指定しちゃだめだと思うんですよ。何で羽根が欲しいのか、何で羽ばたきたいのか、それを考えてほしいし、それをつけてお守りにしてほしい。

で、いつか要らなくなってほしいと思います。

 

秋山  それ、超カッコいいですね。

 

hima://  やったあ。(笑)そういう余白を残すことが大事なので、私の押し付けは絶対に入れたくない。でも毒がないとそういう子にはキャッチされないので、譲れないところは譲らないように。作品として完成する瞬間というのは、こうやって「私は羽根が必要だから」「今なら飛べるかもしれない」と言ってるのを見たときにやっと実現する。

 

秋山  めちゃくちゃカッコいいじゃないですか。

 

hima://  いやあ〜まいったなあ〜。(笑)

 

秋山  僕も似たようなことを思っていて、会社に入って一番最初に作った製品が電気ケトルなんですけど、おばあちゃんにそれをプレゼントしたんです。そしたらそれをちゃんと使ってくれていて、おばあちゃんちの一部になっているのを見たときに本当にめっちゃ感動して、これだ!みたいな。やっぱり、ものを作るというのはそこですよね。自分の作ったものを使ってもらって、自分のやったことが人にちゃんと伝わってるんだなと感じた時、ヤバい、アツい!と思います。

 

hima://  エゴもバランスを取って、めっちゃ出していきたいところですよね。

 

まとめ

 

秋山  今日来てもらったお二人はインターネットを通して活動しているところは共通しているけど、作風も全然違うし、作り方も、やり方も違う。

でも僕が惹かれて、何としてもお呼びしたいと思ったのは、二人とも、中につらいところや弱いところ、やわらかいものを抱えているんだけど、それを自分だけのものにするんじゃなくて、ちゃんと人に届くような形にポジティブに外に発信していく強い意思を持っていたからです。そしてそれが本当に通じている、こういう形で人に届いているというのが最高にクールだなと思います。

 

それが「インターネットは最高」というタイトルにした理由のひとつでもあるんですけど。

工場でものをつくって、それが便利だからいいね!というのを超えたものづくり…ある地味では、昔のものづくりってそうだったと思うんです。家の裏の八つぁんが「こういうものが必要なんだけど」と言ったら、その友達の熊さんが「じゃあ俺が作ったるわ!」と言って作ってあげる。それは大量生産品では叶えられない濃ゆいコミュニケーションみたいなものがあって。僕がインターネット上のものづくりに自分も加わりたいと思う理由はそこなんです。

ものを使って渡す衝動みたいなものがそこにすごく原始的でピュアな形で現れている。そしてそれが流通してうまくいっている事例がここにある。それが本当に最高だなと思って、お二人を呼んで話をさせてもらいました。僕はまだまだ自分の思っていることも人に伝えられないひよっこではあるんですけど、二人のカッコいいところを見習って、ちょっとでも良いもの、ガツンと届くものを作れるようになったらなと思います。どうもありがとうございました。

最後に告知とか、これだけはということはありますか?

 

hima://  3/13〜18まで、東京下北沢で展示をします。キモチフィールソーグッド2という展示なんですが、インターネットは最高、みたいな部分が結局場所に集まってくるのをこういうところで確認していきたい、人の顔が見たい。本当にいる人たちなんだな、というのを毎回モチベーションにしてやっていて、私も楽しみにしているのでご都合がつきましたら遊びに来て頂ければと思います。インターネットの何がいいかは、インターネットそのものではなくて、実は25歳にもなって関西にひとりで来るのは初めてなんですけど、ビビリの私をこうやって大阪まで連れてきてくれた、インターネットは最高です。ありがとうございました。

 

はりー  私は6月に高円寺のぽたかふぇ。さんにて、イラストレーターの内山ユニコさんが作られたインターネットで公開されているキャラクター「顔ちゃん」のトリビュート展示に参加させていただきます。それと、9月に「mon・you・moyo」の展示をします。「mon・you・moyo」のウェブサイトを公開する予定なので、また皆さんに見て頂ければいいなと思います。私はインターネットっぽく言うと、「関西オフ会ガチ勢」というか…。(笑)やっぱり色んな人に会えるのがすごく魅力的だし、会いたい人を探しているというようなところもあるので。

さっきhima://さんが「人の顔が見たい」と言っていたけれど、そういう風に色んな人に会って、話を聞きたい。色んな人の人生を覗くじゃないですけど、とにかくその人の話が聞きたい。それは一見その人のことを考えているようなんだけど、やっぱり結局自分のことしか考えていなくて、聞かせてもらった話を自分のものづくりに取り入れていきたいというのが本当のところなので、色んな人に会いたいと思います。色んな人に会えるインターネットは最高、ということで。

 

秋山  僕も面白かったです。想像力の部屋、3回あるトークのうちの1回目はこれにて終了とさせていただきます。どうもありがとうございました。

八百万の神さまとデザインされたプロダクト(もののけデザイン2)

前回書いた記事を元に、「もののけ」のデザインについてさらに考えていこうと思う。今回は、「神さま」と「人と共生するプロダクト」の共通点をいろんな面から見てみることにしよう。まずは和歌山は高野山の話から。

 

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高野山のコダマたち

昨年の11月に、初めて高野山を訪れた。

山の上の町、見事な杉やヒノキの森、荘厳な朝のお勤め、色々見どころは多かったが、もっとも印象に残ったのは、奥之院に続く参道のそこここに佇む、小さい石像だった。

 

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顔の彫りはないけれど、不思議に穏やかな表情が見えるよう

 

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上のものより立派。お地蔵さんかな?

 

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 これらなんか仏さまの像というより石のかたまりみたいなのに、気配を感じる

 

 

前回も触れたもののけ姫の「コダマ」に似た見た目の、愛らしく物悲しいようなこの石仏。これらは高野山が持つ長い歴史の中で、参拝者が家族の供養のために持ち込んだ石塔―庶民たちの無縁仏なのだそうだ。

彼らは奥之院の森のそこここに無造作に佇んでいる。その数は数百ではきかず、数千、もしかしたら数万もあるのではないか。可愛らしい前掛けや毛糸の帽子は誰がかけてあげたのだろう。

 

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参道の一角に、石塔を積み上げた小山まである。このあたりの土を少し掘るだけで、無縁仏が無数に見つかるそうだ

 

現地でこれらを見たときに、そのただごとではない雰囲気に圧倒された。

広い森の中どこまで行っても石塔だらけなのだ。ほとんど無限にあるのではと思わせる数だった。

でも、不思議と恐ろしい雰囲気は感じなかった。代わりに見てとれたのは、優しく穏やかな空気、不思議な愛らしさ、長い年月の間に徐々に風化していった悲しみのようなもの、誰のものかもわからなくなってしまった気持ちの痕跡だった。誤解を恐れずに言えば、とてもかわいかった。

僕は信心深い方ではないけれど、何か神さまっぽいものがそこら中にいるなと思わせる、不思議な神聖さの漂う空間だった。

 

 

日本独特の神さま/ロボット観

上で、石塔に対して「かわいかった」と書いたが、実はこれは日本人的な感じ方なのだという。その背後には、大木や巨石、身の回りの道具など、あらゆるものに神さまが宿ると考える、八百万的世界観があるようだ。一神教の世界では、神さまは崇めるべき偉大な存在であり、かわいいという言葉の対象にはならない。神さまのことを「かわいい」と思う感覚は、多神教、もっと言えばアニミズムの世界に特有のものなのだ。

八百万の神々が存在する世界観は、僕たちが思っている以上に日本人に根深くインストールされている。そしてその認識が、ドラえもんやアトム、asimoなど、独特のプロダクト―ロボットたちを生み出すための素地になっているというのだ。

書き手不詳のネットの記事だけれど、この文章を読むとそのような見かたがわかる。

 

ロボット・アニメとアニミズム

 

いちばん気になるところを引用してみよう。(太字はあとからつけました)

世界に衝撃を与えた日本人のロボットへの感性の根幹には、日本人の持つアニミズムの呼吸がある。私たちがロボットを―現実の日常に進出してくるにはまだ時間を要するとはいえ―人類の友、あるいはパートナーとして認識するとき、そこには非生物への感情移入が成立している。この種の共感:感情移入は、アニミズム-しばしば、思考や情緒が未発達な幼児に特有のものとして‐西洋では定義される。しかし、日本では擬人化は子供の独占物ではない。直接的にアニミズムを描いたジブリから、びんちょうタンや鉄道擬人化といった萌え文化に至るまで、アニミズムを母体とした日本人の感性がいきている。もっとも、多くの場合、日本人自身がそうした思考体系に目を向けることはなく、したがって意識されることはない。西洋の目を通すことで初めて、ロボットに抱くアニミズムの呼吸に気づくことになる。

 

 先ほど書いた、石塔に対して「かわいい」と思うことはまさに非生物への感情移入だ。

石塔をかわいいと思うことは、コダマやドラえもん、自分たちで生み出したプロダクトをかわいいと思うことと同じ感覚だし、それは偉大なる神に対して抱く畏怖の念よりも、もっと素朴で日常的な感覚であるように感じる。

その意味で、僕らの頭の中では、人間が作ったロボットと超自然の神々が区別されていない。

だからこそ、(ターミネーターじゃなくて)ドラえもんのような、ユニークで可愛らしい存在であるロボットを想像することができるんだろう。 

 

 

 ものに憑依する神々

尊敬する作家のひとり、メディアアーティストの市原えつこさんの作品に「デジタルシャーマン・プロジェクト」がある。亡くなった人との別れを時間をかけて理解するために、49日の間、その人を憑依させたロボットと暮らすというものだ。

 

vimeo.com

サムネイルのお面の主に昨年深圳でお会いしました

 

 『デジタルシャーマン・プロジェクト』では、科学技術の発展を遂げた現代向けにデザインされた、あたらしい弔いの形を提案しています。現段階では家庭用ロボット「Pepper」に故人の人格、3Dプリントした顔、口癖、しぐさを憑依させたものを開発しました。このプログラムは死後49日間だけPepperに出現し、49日を過ぎると自動消滅します。

 

先日ICCの展示で見た際にはpepperではなくもっと小さいロボットを使っていたが、なんというか喋るセリフがリアルなのだ。(「エアコン設定温度下げていい?」とか)故人のふとした存在感を味わうことを通して、その不在を受け容れるためのプロダクト。ロボットを人格の依り代にするというアイデアがすごい。ICCでロボットに憑依していた人格は当然ながら僕にとっては他人なのだが、もし自分の親族や友だちだったらどういう気持ちになるのか想像したくなる、心のひだを触られるような作品だった。

これもある意味、非生物への感情移入だ。「人間が人間以外の存在と共同生活する」のが当たり前の、アニミズム的世界観の上に成り立っている表現なのかもしれない。

 

 

 新しい方法で神さまをデザインする

先日入手した本「未来を築くデザインの思想」に掲載された面白いタイトルのエッセイがあった。ブレンダ・ローレルというデザイナーによる「デザイン・アニミズム」というテキストだ。

 

未来を築くデザインの思想-ポスト人間中心デザインへ向けて読むべき24のテキスト

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コンピュータとその作用を生活に深く浸透させること(パーベイシブ・コンピューティングというらしい)と、アニミズムとの関係を考える内容で、正直難しくて内容が読み取れない部分もあるのだけれど、その一部分に好奇心を非常にそそる記述がある。(太字はあとから)

 

 私の庭には、妖精たちがいる。

妖精の1人は、ラベンダーに着目している。その妖精は花々の歴史を知っていて、日向や日陰が時間の経過とともに庭をどのように移動していくかも知っている。(中略)水の妖精たちは草花の周囲の土を味見して、乾きすぎていたら湿らせてくれる。トカゲたちがヒイラギナンテンから薪の山まで走るのを見たトカゲの妖精たちは、私の机の上でダンスをする。

私たちは妖精を見る―つまり考え出す。しかし今、それを実際に作ることもできるのだ。私たちは初めて、知覚を有して独立して行動できる実体―独立していなくとも、実体同士もしくは生物と交流して行動できる実体を創造する能力を持ったのだ。創造された実体は、学び、進化することができる。新しいパターンを露わにし、私たちの感覚を拡張し、私たちの行為の主体性を強化し、私たちの心を変化させる

 

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                   wikipediaより引用

文章の前後から見るに、ここで描かれている「妖精」は、人間の手で作られた「妖精のようなプロダクト」であるようだ。アニミズムとは万物に神さまが宿ると考える宗教観なのだから、これはエッセイのタイトルでもある「デザインされたアニミズム」(原文ではDesigned Animism)の具体例と言えるだろう。

これらの妖精たちを今ある言葉で形容するならば、いわゆるIoTになるのだろうか。お互いに、あるいは人間とコミュニケーションをする、愛らしい「もの」たちの姿は、付喪神の例を持ち出すまでもなく、妖精や日本における神々ときわめて近い…というか、極論を言えば同じだ。

 

なぜならば、神々はかつて、雷や嵐、夜などの「人智を超えたできごと」を説明するためのコンセプトであったからだ。アニミズムの神々は、人間が彼らを想像することで世界の中に姿を現した。僕らの祖先は、神話や口伝をメディアに、人間に解明できない不思議を担うものとして「神々をデザインしていた」と言えるだろう。

そして、その方法は、上の文章で筆者が描き出そうとしている、「妖精」たる新しいプロダクトやアプリケーションを生み出す手法と、根源的にはまったく同じではないだろうか?

 

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というわけで、「もののけ」と「プロダクト」は、実はけっこう近いものなんじゃないかという話を書きました。次回(まだ続く!)は、「もののけとしてのプロダクトはどんな姿をしているか?」というテーマです。できるだけ早めに書きたいぞ!

 

たいしたことないものを人に見せること

(自戒を込めて書きます)

自分で作ったもの、あるいは描いた絵、作った音楽、文章でも、なんでも良いんだけど、なにか作ったものを誰かに見てもらうことって結構ハードルが高い。

芸事を行う人ならわかると思うけれど、\これを作りました/ と発表することで、そのときの作者のスキルやセンスが見る人にダイレクトに伝わる。だから、上手くいかなかったものを見せることは、自分の力のなさをお披露目していることにもなってしまうだろう。怖い。できればそれは避けたい。自分がダサいやつであるということを悟られたくない。

 

けれど、それでもそれを見せることでしか得られないものがある。それは第三者の評価だったりとか、意外な人のつながりだったりとか、それなりの自信だったりとかする。それらは一人で作っているだけでは決して得られないものだ。残念ながらそれは間違いない。

今まで会社の仕事以外でいろいろ作ってきたけれど、それらはお金を産んだわけでもないし、コンペで賞をもらえたわけでもない。(とてもくやしい)

でも、何かを作って誰かに見せることで、見知らぬ土地で友人ができたし、ネットの向こう側とも交信できたし、見たことのないものをたくさん見ることができた。それに、何年か続けているうちに、幸いなことに、作ったものに興味を持ってくれる人から言葉がもらえるようになった。(とても嬉しい)

そういった体験を繰り返していると、(もしかして…自分には新しいものを作れる可能性があるんじゃないかな…?)と思えるときがある。もしかしたらそれは勘違いで、作ったものはゴミなのかもしれないけれど、そう思い込むこと、作り続け、発表し続けて、土俵の上に居続けることからしか、新しいもの、価値あるものは生まれない。

 

土俵から降りてたまるかと念じながら、たいしたことのないものを発信することを続けていこう。なぜならそれは、とても楽しいことだから。

 

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 年末に考えていた、「手紙として送れる音楽プレイヤー」のアイデア。埋もれる前に

 

文学のなかのもの

 

先週末、大学のころの友人と話していた時に、小説、特に戦前の文章の「ものを描写するテクニック」ってすごいよねという話題になった。夏目漱石が羊羹のことを書いた文章とかすごいよという話。あまり思い出せなくてもどかしい思いをしたので、家に帰ってからどんな書き方だったのか調べてみることにした。その一説は「草枕」の中にある。

夏目漱石 - 草枕

 

余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹がだ。別段食いたくはないが、あの肌合らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出してでて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。クリームの色はちょっとかだが、少し重苦しい。ジェリは、一目宝石のように見えるが、ぶるぶるえて、羊羹ほどの重味がない。白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、言語道断の沙汰である。

 

何かを描写するには観察力と表現力が必要だ。それは絵でも文章でも同じだと思う。文章の場合、表現力はボキャブラリーとかレトリックになるんだろう。このテキストでも、「羊羹をほめる」ということに対して、いくつもの魅力的な言葉が気持ちよく使われている。

 

・肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける

・玉と蝋石の雑種のよう

青磁の中から今生れたようにつやつやして

 

これだけ沢山の良い言葉が羊羹をほめるために繰り出されるのだ。Twitterばっかりやっている僕にはほとんど衝撃的です。「羊羹って洋菓子とは違った魅力があってめっちゃ良くない?」では伝わらない魅力を余すところなく伝えて余りある。表現が豊かすぎて、それについて何か書くのがばかばかしくなりますね。

(ちなみに、ちょっと調べたところ、文中の「青い煉羊羹」については、抹茶色の羊羹だったとか、茶色の羊羹の色の深さを「青」という言葉で表したとか諸説あるようだ。僕は後の方の解釈が好み)

 

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V&Aミュージアムで見た楽茶碗。全世界の焼き物が所狭しと並べられている中にすっと置かれていて、なんだかほっとした気持ちに

 

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日本的な美を書き表した表現についてもう一つ。僕は社会人になってから読んだのだが、建築、デザイン関係の学生の間ではとても有名な本だという、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」から、金色の使われ方についての一節。

谷崎潤一郎 陰翳礼讃

 

諸君はまたそう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。

その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。そして、その前を通り過ぎながら幾度も振り返って見直すことがあるが、正面から側面の方へ歩を移すに随って、金地の紙の表面がゆっくりと大きく底光りする。決してちらちらと忙がしい瞬きをせず、巨人が顔色を変えるように、きらり、と、長い間を置いて光る。時とすると、たった今まで眠ったような鈍い反射をしていた梨地の金が、側面へ廻ると、燃え上るように耀やいているのを発見して、こんなに暗い所でどうしてこれだけの光線を集めることが出来たのかと、不思議に思う。

 

・遠い遠い庭の明かりの穂先

・ぽうっと夢のように照り返して

・沈痛な美しさ

・眠ったような鈍い反射

 

すごすぎやしませんか。眠ったような鈍い反射!ほの暗い畳敷きの部屋で金のふすまがわずかに光る様子が目に浮かぶようだ。

この段落よりも前に、「日本の蒔絵とかって結構派手な金色の使い方をしているけど、それが派手に見えるのはもともと想定されていたより明るく白い空間で見ているからで、本来は薄暗い部屋で見るのが一番綺麗である」というくだりがある。それを読んでから再度見てみると、よりここで描こうとしている美しさの正体に近づきやすいと思う。

一節の中で、個人的に最高だと思うのはこの部分。

 

・巨人が顔色を変えるように、きらり、と長い間を置いて光る

 

「、」の使い方含めて美しい。天才。

 

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近所の古い家の軒先から下がっていた照明。すりガラスのシェードが光を柔らかくしている

 

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最後に、宮沢賢治銀河鉄道の夜」から。列車で目を覚ましたばかりのジョバンニとカンパネルラが、窓の外に広がる天の川に目を奪われるシーン。

宮沢賢治 銀河鉄道の夜

 

その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどきの加減か、ちらちらいろのこまかな波をたてたり、のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。

 

・ガラスよりも水素よりもすきとおって

・紫いろのこまかな波をたてたり

・声もなくどんどん流れて行き

 

「天の川の水」は、上2つの例とは違って現実には存在しないものだけれど、この文章を読むと、それがどんなものか分かるような気がする。

透明度が高すぎて、光のゆらめきのように見える液体。空気のようにさらさらしているので、波立つことはあっても音を立てることはない水。水晶やシャボン玉のような、はかない紫色のハイライト。

 

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島根の海辺。これはこれで綺麗だけど、天の川の風景はきっとこういう色ではないよね

 

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優れた文章による描写を読むことで、自分が見過ごしていたものの美しさに改めて気づき、ものの見方の解像度をぐっと上げることができる。夏目漱石の羊羹語りを読んだ後に羊羹を食べれば、その魅力により深く迫ることができそうだ。味も変わって思えたりして。また、谷崎潤一郎に何かプロダクトを語らせたら、角Rの端に入るハイライトライン一つとってもかなり雄弁に描写してもらえそうだ。

 

自分の身を省みて、もののデザインをするときに、自らが作る形をこんなに細かく見ているだろうかと思う。案外、フィーリングで形状を決めたり、データやデザイン与件の成立しやすいようにしちゃってないだろうか。美しいレトリックで飾るまではゆかなくても、一つ一つの要素に意味を持たせているだろうか。正直、いままでの仕事ではそこまでのことはできていないんじゃないだろうか。

優れたデザイナーは、自分が今見るよりもよっぽど深く、詳細にものを観察し造形することができるのだろう。それこそ、夏目漱石谷崎潤一郎のように。