ふしぎデザインブログ

デザイン事務所「ふしぎデザイン」の仕事やメイキングについて書くブログです。

かたちの肖像



秋にあけたらしろめこと草野くんと二人展をやることになった。
まず始めに、面白い展示になると思うので、ぜひ来てほしいです。

そこで展示する予定のドローイングと、最近考えている「形」のことについて書いてみようと思います。
(長いです)

-----------


工業製品のかたち

以前から、「美しいかたち」というものを深く探ってみたいなと考えていた。

プロダクトデザイナーという職能は、突き詰めればものによい形を与える能力のことだ。少なくともいまのインハウスデザイナーはそういう能力を期待されているし、自分もその力を鍛えて、よい形のものを生み出せるようになりたいと思っている。
かたちにはいろいろあって、例えば動物や優れた彫刻のような、生きたかたまり感の強いものもあれば、近代建築やモダンな工業製品に見られる、幾何形態の組み合わせでできた静かなものもある。

モビリティという例外を除いて、工業製品の基本形は、ほとんど回転体と平面の押し出し形状という二つの単語によって記述できるように思う。電気製品は、四角い基盤やディスプレイ、丸いレンズやモーターなどの「内臓」のレイアウトをもとに造形するからだ。だから「ガワ」の形を考えるデザイナーにとって必要なことは、その制約をもとにいかに豊かなかたちを作るかということなのだけれど、これがなかなか難しい。部品の最適な配置と、外形の最も美しいかたちは必ずしも一致しないことが多いからだ。(これについては草野くんも自分のブログで触れている。)

エンジニアリングを学んだ友だちと話していたときに、そもそも設計者とデザイナーが持つものに対する意識が違うから問題が起こるんだという話を聞いた。
製品を見たとき、デザイナーはものを連続した形の集合として捉えるのに対し、エンジニアは基準面やはめ合い関係をベースにした、ひとまとまりのシステムと捉える。だから、あるときはデザイナーにとって重要な形はエンジニアにとっては邪魔であり、またあるときエンジニアにとって重要な部品の配置はデザイナーにとって不愉快なのだと。
僕はエンジニアになったことがないから向こう側からの実感はできないが、お互いの話している言葉が違うことを知らずに一緒に仕事を進めていると、このような問題はいくらでも出てくるだろうと思う。

Braun Portable Radio

内臓とガワの対立は電気製品の持って生まれた宿命のようなもので、対立が起こると分かっていても、生産効率やコスト、手入れのしやすさなどを考えると、どの製品もこの構成を取らざるをえない。というよりも、製品をつくる方法はそれしかないんじゃないかと思う。
工業製品の生産方法が革命的に変化しない限り(例えば、すべての部品をひとつのプリンタで連続して出力できるようになるとか)、動物のかたちのように、外面と内面、機能と形態がシームレスにつながっているような電気製品は生まれない。なにせAppleでさえ内蔵とガワの基本構成を守っているのだから。
「Form follows function」という、工業製品のデザインを語るときによく使われる言葉があるが、ナイフや画鋲のようなとても単純な道具ならともかく、電気製品においては、この理想は厳密にはいまだ達成されていないのだと思う。

Apple Mac Pro



平面から生まれる立体

理想を追うのも大事だが、現実主義者のデザイナーにとって重要なのは、リアルな状況をどう良くしていくかということだ。だから僕は、まず工業製品にとって重要な二つの形、「回転体」と「押し出し形状」をよく作れるようにしようと考えた。

この二つには、平面上に描いた閉じた線を、二次元で移動させることによって表現できるという共通点がある。
線は形のベースとなり、平面だけでなく立体の印象をもある程度決定するもの。なので正面性の強い形の製品において、この「閉じた線のまとまり」を美しく描けるということは造形をする上で一定の重要性をもつ。CAD(コンピュータ設計)以前の優れたデザイナーが描いた図面を見ていて、なんだか絵みたいにきれいだなと思うのは、こんな理由からじゃないだろうか?
この造形に対する考え方は非常に限定的だし、形は機能に従うという理想とは違うが、現実的な解決策としてはそんなに悪くないものだと思う。

Fridolin Müller Drawing

「CAD以前の〜」などと書いたすぐ後にこんなことを書くのも何なのだが、ドローイングのヒントとなったこのアイデアは、実はCADからインスピレーションを得ている。というのも基本的に(僕の使っている)ソフトは、二次元の面に線を描いてそれを押し出したり互いに干渉させたりすることしかできないからだ。

僕は会社に入ってからCADを使いだしたのだが、最初はその独特な造形方法に戸惑った。
平面上に線を描き、お互いを矛盾しないように面で結びつけ、自分の思う通りの形を定義する。それは、それまで大学で行ってきた、ひたすら素材と向き合い、ときにはせっかくの形を割ったり削りすぎたりしながら作り上げていくプロセスとは無縁に見えたし、まったく自由に造形できないのではとも思ってしまうようなものだった。

3DCAD screenshot

しかし、少し時間がたってソフトに慣れてくると、意外といろいろな形が作れるなということ、そして、そもそもあんまり自由な形を作る必要がないということに気づいた。
工業製品はみんなが使うものなので、あまり無責任で好き勝手な形を作る訳にはいかないし、僕は技術不足でCAD上ではそういった形を美しく仕上げることができない。それよりも、与えられた制約の中で、いかにシンプルで最適な形を選び取っていくかということの方が大事だ。そして、CADというルールの中で工業製品を作るにあたっては、「線→面→形」のマナーを自分の中に浸透させる必要がある。
そのために、まずは、「美しい線」の練習を楽しくしてみようと思い、今回のドローイングを思い立ったのだ。




Give life back to form

ここ数年、工業デザインの勢いないよね、というのは誰もがなんとなく納得してしまうと思う。
最近はインターフェースやwebデザインなどかたちのないもの全盛だ。製品デザインにおいても、極限まで薄く小さくなる電子機器や、浮遊感あふれる蛍光色など、「重みのない、形のないデザイン」に憧れたようなものが多いように思うし、たまにものの話題を目にしたと思っても、だいたいが3Dプリンタ関連のトピックスだ。このような傾向を見ていると、今まであったかたちは飽きられ、避けられているのではとすら感じる。

iOS7

Google Glass

Form1 print sample

たしかに3Dプリンタはすごい。材料のもともとの特性や通常の加工方法を無視した、データをそのまま物質に変換するかのような造形方法はとても軽やかだ。最近のものは価格も手が届きそうだし、おれもすごいものが作れるんじゃないかという気にさせる魔法がかけられていると思う。ただその魔法の力が強いがために、ものづくりがとてもインスタントでチープなものなんだと勘違いされてしまう危険性も、同時にはらんでいる。



話は変わるが、ちょっと前に出たダフトパンクのアルバムが良くて頻繁に聴いている。
曲の完成度がめちゃめちゃ高いのは相変わらずだけど、今までのロボットぽい音よりも生楽器の音を前面に押し出した曲が多い。初めに聴いたときは少しびっくりしたのだが、聴いていくうちにその方向性の変化が自然に感じられるようになった。あるインタビューの記事によると、これは本人たちに影響を与えた音楽のスタイルをごちゃ混ぜにしたものだというが、聴いていてなんとなく思ったのはテクノっぽいスタイルに飽きちゃったんじゃないかなということ。一曲目のタイトルからして"Give life back to music"と、DTMから生音への回帰を歌っているようにも思えるし、何より、スタイルとか関係なくこの曲すごいかっこいいんだ。(動画は埋め込み再生ができないようなので、Youtubeで見てください)



これは音楽だけの話でもないと思う。確かに重みのあるものは流行っていないかもしれない。だけど、ものがものである限りは形はずっと必要なものだ。工業デザインの分野において無形のものに憧れるのもいいけれど、逆にかたちという原点に回帰してみるのも大事だと思う。バーチャルなものからの回帰的な動きは確実にあるようで、例えば触覚や香りといった語感にフォーカスしたデザイン(以前書いたTECHTILEのようなもの)が増えてきたり、木材や陶器といった天然素材もその価値を見直されてるようだ。今年のインテリアライフスタイルも、なんだか日本の伝統的なものづくりをテーマにしたブースが多かったし。



かたち大好きな作家たち

今年の初めに、工業デザイナーの柴田文江さんと清水久和さんの対談を聴きにいった。そこでの話題は、徹頭徹尾かたちのことばかり。どうやって美しいフォルムをつくるか、どうやったらそれにユーザビリティを持たせることができるのか。かたちの世界は奥深いですよねと話す様子はとても楽しそうだった。本当にものを愛してるんだなと感じられて聴いている方も嬉しくなったし、同時に自分のかたちに対する認識の浅さが浮き彫りになるようで怖かった。何より、かたちのプロがある面無邪気に語っているのがとても良かった。そういう目線でみると、お二人の手がけた製品は、どれも楽しんで作られたように感じられる。

Fumie Shibata

そのような無邪気なかたちは、ミッドセンチュリーのプロダクトやアートにも多いように思う。イサムノグチ、カルダー、ハンスアルプやヘンリームーア、それから書体デザイナーのフルティガー(フリーハンドのかたちを題材にした木版画のシリーズがある)など当時の「かたち作家」たちの描き出す彫刻やドローイングは動きにあふれリズミカルで、とても元気がいい。単純で明快なトーン、すいすいと引かれたように見える線や音楽を感じるような色彩、紙上のものでも立体でも変わらない確かな輪郭を見ていると、こんなことが自分でできたらとうらやましくなってしまう。白い紙の上に黒い形を描くという今回のやりかたは、直接的にはこれらの作品に強く影響を受けている。

 Alexander Calder

Hans Arp



石ころのように美しいかたち

動物や植物、あるいは石ころのような自然物は、ただあるだけで美しい。個人のエゴではなく長い時間によって洗練させられてきたから。あるいは、ある意志によって加工されたのではなく、内側からすこしずつ盛り上がって生長したから。上述した作家たちの目標は、自分のエゴによってこれらの形をシミュレートすることだったのではと思うことがある。きっと風雨が長い時間をかけて石ころを丸くするように、何回も何回も線を書き続け、木や石を削り続け、自分のなかにある感覚を洗練させて強いラインやボリュームを探していったのだろう。

Isamu Noguchi

彫刻やドローイングとして生み出されたかたちには言葉で表されるような意味はなく、自然物のようにただ存在するだけ。でも、そこには言葉にできない魅力がある。意味のある形を作ることが仕事の工業デザイナーからしたら、意味や用途のない形などナンセンスかもしれないが、そこに確かにある形の美しさ、もっとざっくばらんにいうと「良さ」は感じられると思う。
いっしょに展示をする草野くんの絵もそうだ。僕は彼の絵に込められたストーリーや世界も好きだが、何よりその強い線が良いと思う。twitterやブログに次々とアップロードされるイラストは、続けて見ているとどんどん良くなっていくのが分かる。一枚ごとに輪郭は洗練されて、まるで草木が育つように絵が育っていくのを感じる。彼の日記のようなそれぞれの絵には、その時々の気持ち、テンション、そして手の運動が力強くやさしい線によって定着されている。草野くんの絵は、言葉にできるものの後ろにもっと大きな良さを隠し持っている。なんというか、彼にとって絵は体の一部なんだなと思うのだ。

あけたらしろめ



良い形には力がある

例えば美味しいものを食べてうまいなと思うことや、いい音を聴いて気持ちいいと思うこと、そのくらい基本的な価値を、良い形は与えてくれると思う。
トマトにはビタミンが沢山含まれているからうまいし体にいい。トマトからビタミンの味がするわけではないけれど、現代人はそのことを知っているから、いいトマトを食べてよけいにいい気持ちになったりする。だけどそんな知識がなくとも、本当においしいトマトを食べたら、誰でもこれはいいものだと感じることができる。
僕が思うに、かたちも似たようなものだ。良いかたちを見たときに、専門家ならこの丸みがいいんですよ、と説明できるだろう。だけど、丸さはそのまま良さではないし、本当に大事なのは言葉にできない総合的なバランスだったりする。そして、本当に美しいかたちの良さは、うまいトマトの味のように説明抜きで誰もが多かれ少なかれ感じているはずなのだ。

ところが時に人は、直感的な良さよりも能書きの方が気になってしまう。直感的な魅力は言葉にできないため共有しづらいからだ。このトマトにはビタミンAが多いからうまいんです、という説明が本末転倒であるように、この形は丸いからいいんですという説明も、もっともらしいが本末転倒であると思う。
もちろん、言語化できない形の善し悪しは味や音色のそれと違って、そこまで直接的なものではない。人によって好みも大きく違うし、善し悪しの微妙な違いは正直分かりづらいときもある。だからといって、形に能書きばかりを求め、言葉にならないかたちの価値とその持つ力を否定してしまうのは、少なくとも工業デザイナーのやることではないと思う。

僕は形が好きだから、形の持つ力を信じている。目に見えたり味わったりできるものではないが、よい形のものは、それに関わる者に何らかのよい影響を与えてくれると思う。できるなら、偉大な先輩達のようにかたちに挑戦し続け、自分から良い形を生み出すことのできるデザイナーでありたい。



作品のこと

冒頭に掲げたドローイング群のタイトルは、「かたちの肖像」という。
具体的なモチーフを定めず、自分がいいなと思う形を紙上に落とし込んでいくシンプルな作品だ。(実はもうひとつ展開のアイデアがあるのだが、できるかどうか分からないため内緒にしておく)
ここまで読み進めていただいたのならなんとなく分かると思うが、ここでやりたいことは、「良い形」への回帰と追求だ。カルダーやフルティガーのように、また草野くんのように、よい形を、肖像画を描くようにていねいに描いていきたいと考えている。だからこのシリーズには、筋書きとかストーリーというものがない。
モチーフやストーリーがないというのは作品を見る人にとってはちょっと分かりにくいかもしれないけれど、展示を見てもらって、なんだかよくわからないけどこの形いいな、と思ってくれたらこれ以上嬉しいことはない。なぜならそれは、言葉にできない形の魅力を、もっと直感的に、直接的に伝えられたということだからだ。





----------

展示は10月の予定、東京と関西でそれぞれ開催します。もし興味をもって頂けたら、ぜひ会場に足をお運びください。ライブドローイングやグッズ販売もある予定です。
今考えていることはだいたい上の通りですが、まだ時間があるのでこれから変わっていくかもしれません。なんにしても、草野くんと一緒に展示したら、何か面白いものができると思う。

沢山の方に見て頂きたいし、いろいろな方に見に来てもらえることを、今から楽しみにしています!